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フィリピン、デュマゲッティ体験談その12、12歳に見える?


 私の最近1番の悩みを聞いてください。

それは...、とにかく年齢より幼く見られることです。

日本にいる時も、メイクをせずにピンクのTシャツなど着て歩いてようものなら
確実に小学生に間違えられますし、
本人としては年齢相御に見られようと精いっぱい頑張ったつもりでも、
せいぜい16歳くらい、高校生に見られればまだ良いほうという具合なのです。

 でもフィリピン人は身長も日本人より低いですし、
食べ物が十分ではないせいか比較的痩せている人が多く小柄なので、
日本人より幼く見えます。

17歳くらいの子が、日本の中学生くらいに見えます。

なので、この国なら、この私でも年齢相応に見てもらえるかも...
なあんて、自分の中では思っていたのです。

 ところが...。

3週目はホームステイしていたのですが、
そこのお母さんに「あなたは何歳なの?」と聞かれ、
「二十歳です」と答えると、
「え?二十歳なの?幼く見えるわねえ、12歳くらいかと思ったわ」と言われ...。

 さらに、ユースセンターにサービス活動に行っていたわけですが、
そこの16歳の男の子にも「え?二十歳なの?12歳くらいにしか見えないよ」と言われ...。

 しまいには、私がステイしている家に近所の女性が遊びに来たのですが、
その人もお母さんに
「この子は何歳なの?12歳くらい?」と聞いていて...。

さすがにショックな私です。

日本人より比較的幼く見えるここフィリピンでさえ、私は12歳(つまり小学生)に見られたという...。

いや、たしかに途上国へ行く時は、化粧を落とす水が十分で無いことや、
汗をよくかく環境にあること、日焼け止めを何度も塗り直すことなどの理由から私はメイクをしていませんし、
動きやすいかっこうが基本の場所なので、Tシャツに7部丈くらいのGパン、
髪は暑いしじゃまになるので一つに結んでいる...というかっこうなのですが...。

それにしても...。

 汚れてもいい服ということで、
小学生のころから着古しているTシャツを今でも着て来ていることが問題なのか...、

そうに違いない、いや、そうであってほしい...、

そう思った私は早速その週の日曜日、ICUの友達といっしょに服屋さんへ出かけ、
「私が小学生に見られないTシャツ探して?」とお願いしたのでした。

 以前にもお話ししたかもしれませんが、フィリピンは日本より物価が安く、
200円あればレストランで1食食べることができます。

つまり、日本の5分の1くらいの値段で物が買えるため、
けっこうきちんとしたtシャツでも、500円以下で十分手に入るのです。

ショッピングをするにはもってこいの国です。

そこで、とにかく友達に2枚の服を選んでもらい、
彼女いわく
「年齢相応に見えるかどうかは保証できないけど、とりあえず小学生には間違えられないと思う」
というTシャツを2枚ゲットしたのでした。

 皆さん、下の写真をご覧ください。

写真
私の隣にたっているのは、ホームステイ先にいた女の子で、彼女こそ本当の12歳(小学校6年生)です。

...どうですか?

彼女と見比べたら、まだ私のほうが年上に見えると思いませんか?思いますよね?思いましょうよ。

 12歳くらいに見られる...、
そう話したらみんな「若く見られていいじゃん」と笑いながら言うのですが、
今私にとっては真剣な悩みなのです。

日本でそう見られるのならもう諦めがついていますが、フィリピンでさえ小学生だったことが...。
誰か、私を大人にしてください!!!

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フィリピン、デュマゲッティ体験談その11、エスケイプ


 ユースセンターでのサービス活動最終日である日金曜日、
私たちはいつものようにステイしている村からユースセンターへの片道約10分を歩いていました。


 と、ユースセンターの近くまで来た時、
そこで保護されているはずの14歳くらいの男の子に出会ったのです。

「え?Why are you here?(何でここにいるの?)」。

"Escaped(脱走したのさ)"

と、彼は誇らしげにエスケイプしたのだと答え、
満面の笑みで私たちに手を振って走り去って行きました。

 で、私たちがユースセンターに着いた時、
なんと15人いたはずの男の子がたった5人しか残っていなかったのです!

2010年7月16日午前9時、
ユースセンターが始まって以来(2007年設立)最大人数がエスケイプしました
(私たちが着いたのは9時半ごろです)。

 その日、外では草刈り機が動いていたため、
1階にいたスタッフには2階で何が起こっているのかが聞こえませんでした。

彼らは部屋の天井の板を1枚外し、ドアに足をかけて天井に登り、
みんなの毛布を結び併せてロープを作って、2階の天井から下へ下りたのです。

エスケイプしたのは主に8歳から14歳の小さな子たちで、
1番年上の男の子が毛布の端を持って先に小さな子たちを逃がし、
1番最後の彼はたぶんどうにかして1階の屋根にすべりおり、
そこから飛び降りたと思われます。

だからみんなより逃げるのが遅れたのでさっき私たちとすれ違ったのです。
残された5人は1階にいたので、みんなが2階でエスケイプしていることに気づけず機会を逃したのでした。

 ...30度を越えるフィリピンの道路のアスファルトは、まるで湯気が出そうな熱さです。
私たちがすれ違った彼はその道路を裸足で、着の身着のままで走って行きました。
確実に足の裏は火傷してると思います。

彼らのうち多くは我が家を目指しています。
みんなそこまでして家に帰りたいのです。

ちなみに、私たちがすれ違った男の子の家はユースセンターからバイクで20分
(フィリピンのバイクだからゆっくり)のところなので、まあ彼は2時間くらい走るんでしょうね。

 ユースセンターのスタッフたちはべつに焦った風も責任を感じている風も無く、
「これだけの人数がエスケイプしたのは初めてだね。5月は7人だったよ。
まあいずれまた警察に捕まって、2週間もするころには全員ここに帰ってくるから」と。

彼らのうち10歳になるマイケルは、これで11回目のエスケイプだそうです。
子供たちがそこまで逃げ出したくなる施設...
やはり政府がもう少し資金をつぎ込んでくれれば、
グラウンドや体育館などを中に立てられるスペースがあり、
十分な食べ物を提供できれば...と思わずにはいられません。

写真1枚目

※写真の1枚目は、絵を描くユースセンターの男の子たちです。
たぶん、宇宙の絵を書いているのでしょうか。
このサービス活動の期間、私たちは彼らと絵を描くコンテストをしたり、
爆弾ゲームをしたり、伝言ゲームをしたりと様々なアクティビティを提供しました。

写真2枚目  

 写真2枚目は、最後にユースセンターのみんなとお別れする直前の写真です。
ご覧のように、私たち3人の日本人の他に、男の子がたった5人。
これ、本当は15人いたんです。でも最終日にはこの5人しか残っていなかったのです。

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フィリピン、デュマゲッティ体験談その10、無実なのに...


 刑務所のオフィサーに質問を続けるうちに、私たちの中に疑問が浮かびます。

刑務所に入っている大人たちは外で自由にできる、
なのにユースセンターの子供たちはあの狭い建物から出ることができないし、
資金不足で食べ物もお肉とかめったに出ないらしくて育ち盛りの彼らはいつもお腹を空かしている。

それに、私たちがインタビューした男性のうち一人は実はまだ17歳で、
あまりにも何度もユースセンターから脱走したがためにやむを得ず1年早く刑務所に入れた子なのですが、
彼は刑務所のほうが居心地が良いし楽しい、今のところここに不満は無いと話したのです。

じゃあなぜわざわざ子供たちを保護しているのか、
何のために、なぜ子供たちのほうが檻みたいなところに閉じこめられ、
少ない食事で生きなければならないのか、本当に保護なのか?

私たちはこの疑問をオフィサーにぶつけます。

理由はやはりバスケットボールなどをするにしても
10歳くらいの小さな子が大人の男性にまじってプレイするのは危険だし、
あと子供たちのたいていの罪は食べ物を盗んだ程度のものなのに、
大人と同じ部屋にいたら麻薬の使用法とか鉄砲の入手法など良からぬことを学んでしまうから、だそうです。

囚人たちがイライラしないよう食事やアクティビティに気を使っているので、
少なくともここ3年は刑務所内で喧嘩や虐待が起きたことは無いそうです。

まあ確かに良くない影響を受けるかもしれない、
だったら子供たちだけの部屋を作ればいいじゃないか、
こんなにスペースがあるなら子供たちだけの運動場を作ればいいじゃないか...。

まあ刑務所の施設がこんなに整っているのは場所によるのかもしれなくて、
地域によってはただの檻なのかもしれませんが、
子供たちを刑務所から保護することが一概に良いことだとは言い切れないかもしれない
(まあプレダほど自由に遊べるならいいのか?)というのが私の結論です。

 その後、囚人の女子寮に行った時、

「日本人ですか?」

とけっこううまい日本語で話しかけてきた囚人がいて。

"Yes, we are Japanese. Why can you speak Japanese?
(はい、日本人です。どうして日本語が話せるのですか?)"と私たち。

「私は、日本に行きました」

彼女はたどたどしいながらもほとんど日本語で話してくれました。

今はもう40歳を過ぎていて23歳の娘がいるのですが、
1991年ごろ仕事で3回日本を訪れています。
1度目は名古屋、2度目は岐阜、3度めは徳之島。

ただ、心が痛んだのは、
"What kind of job you had in Japan(日本でどんな仕事をしていたのですか?)?"

と聞くと、

「あの...エンターテイメント」と答え。

つまり、人前で踊ったり何か芸当をしたり、
場合によってはメイド喫茶のようなところで奉仕したり、
売春産業で売られていた、ということです。

実際、日本には多くのフィリピンパブがあるのをご存知でしょうか。
そういうところで働いていたということです。

 今でもまた日本に行きたくて、日本が好きだから20年間日本語の勉強を続けてきたと話、
刑務所にも英和辞典を持って来ているのです。

"Why do you like Japan(どうして日本がそんなに好きなのですか?)?"と聞くと、

すごく言いにくそうに「...あのう...お金ない」

"So if you go to Japan, you can get much money than here?
(つまり日本に行けばここにいるよりたくさんお金が稼げるからっということですね?)"

「はい......恥ずかしい」...まあ、これが現実なんですね。

貧しい暮らしからの脱却を求めて母国を捨てる→言葉が通じない国に来る→苦労する→ようやく仕事を見つける→エンターテイメントなど自分をおもちゃとして提供する職業→お金ほしさにどんな仕事でも行い日本語を拾得→お金を稼げる国が好きになる→また来る......。


 さらに心を痛める話があります。

彼女が刑務所に来たのはこれが2度目で、1回目は麻薬を使用した罪でした。
デュマゲッティにはある特定の、違法で麻薬取引が行われている場所があり、
彼女はそこで逮捕されました。

釈放された後、彼女はまたその場所に行きました。
でも2回目は本当にただその場所に行っただけで何もやっていないのです。

でも、彼女が1度罪を置かしているので2度目を恐れた警察が、
彼女の知らないうちにコッソリ彼女の鞄の中に麻薬を入れておき、
麻薬所有の罪を押しつけて逮捕し、ここに連れてきました。彼女は無実でここにいるのです。

まだ裁判が行われていないので(5月終わりに来たばかり)
彼女がいつまでここにいなければならないのかは分かりません。

でも裁判では無実を証明する物は何も無く、逆に麻薬所有の証拠のほうがあるのです。
たぶん...彼女は1度罪を犯していることもあり、裁判で負けることが予想されます。
本人もそれを分かっていてだから半分あきらめていて、もう出られないことを覚悟しているのです。

 そして、これが1番おかしい制度だと思うのですが、
フィリピンではどんな罪を犯しても(とくに麻薬売買や所有の場合)多額のお金を払えば釈放してもらうことができます。

彼女の罪の場合、5000ペソ(10万円)払えば今すぐ釈放してもらえます。
でも彼女にはそのお金はありません。
逆に言えば、外国人がフィリピンで罪を犯しても、すぐお金を払って釈放されるのです。

10万円くらい、日本人なら大学生でさえ頑張れば払える金額ですよね。

だから日本人など先進国の人々は覚醒剤の取引をしたり児童売春をするのに、
ここフィリピンを選び、1回くらい逮捕されてもこりずにまた来るのです。

 また10年くらい世の中には出られないかもしれない...
そう覚悟している彼女のところに訪ねて来る訪問者はいません。
旦那さんはすでに亡くなっており、23歳になる娘さんはめったに彼女を訪ねては来ません。

だから彼女は私たちに最後まで
「また来てね、また、よろしくね」と言っていました。
私たちはそれに返事をすることができません、また来ることはもう無いのです。

「ここから出られたらまた日本で会おうね」とごまかすしかないのです。
私たちがこの1ヶ月のサービスラーニングに費やしたお金は25万円。
そう考えると日本に帰って自分たちのバイト代や奨学金をかき集めれば、彼女を救うことくらい本当はできます。

でもあくまで授業のいっかんとして来ている私たちはそれをすることは許されません。
また彼女の話によると、同じように無実の罪でここに入れられている友達が他にもたくさんいると言います。

一人救ってもきりがないのです。

けっきょく私たちは彼女を残して刑務所から帰ってきたのです。

  刑務所の敷地を出る時、案内してくれた女性スタッフが、
「日本にはNGOなどの団体がありますか?
もしあるなら、ぜひあなたたちは日本の団体にこの状況を伝えてほしいのです。
私たちをヘルプしてほしいのです」と話します。

「私たちに何ができますか?」と聞くと、

「ただここに来て、囚人たちを訪ね、アクティビティ(やること)を提供してほしいのです。
彼らにはアクティビティが不足しています。
また多くのプリゾナーには訪問者がいません。
訪問者が来る人はごく少数で、彼らはそれをうらやましく思いながら常に寂しさと戦っています。
だからあなたたちには彼らの訪問者になっていただきたいのです」と話していました。


※最後に写真です。その日本語を話せる女性と私の2ショットです。

日本語を話せる女性との2ショット写真

 

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フィリピン、デュマゲッティ体験談その9、刑務所へ訪問

 

 7月14日の午後、ユースセンターではなく、本当の刑務所のほうに行ってきました。
その体験談を話す前に、まずフィリピンでの刑務所事情について説明させてください。

私自身が日本の刑務所の中を見たことがないので詳しいことは分からないのですが、
日本ではたぶん、囚人に対して一人一つの部屋が与えられています。
しかしフィリピンでは、囚人全員が一つの部屋だったり、
あるいは20人とか30人とかで一つの檻みたいな部屋に入れられていたりするのです。

また日本では、囚人たちがストレスのために何か問題を起こしたりしないように、
食事は比較的おいしい物を出していたりすると聞くのですが、
フィリピンではまるで豚の餌のような食事しか提供されないと聞いていました。

さらに1番問題なのは、たとえば殺人を犯した大人の男性と、
食べ物を盗んだだけの8歳の男の子が同じ部屋に入っていたりするのです。
すると、子供たちは大人から、麻薬やレイプ、殺人などの悪い影響を受けたり、
あるいはストレスのたまった大人たちに刑務所内で虐待されたりする、という問題が起きています。

だからこそ、子供たちは刑務所から保護して、ユースセンターやプレダなどのように、
子供たちだけの少年院のような施設で暮らせるようにしなければならないのです。

世界的には「子供」の基準は18歳未満の人、とされています。
「子供の権利条約」などで「子供」とされているのも、18歳未満を指します。

つまり、刑務所に入るべきなのは、18歳以上の人、ということになりますね。
とは言え、以前の体験談でもお話ししたように、
ユースセンターで保護されている子供たちは外へ出ることができず、
中高生の1番体力が有り余っている年頃なのに、
まるで鶏小屋の鶏のように狭い建物に閉じ込められ、
また施設の資金不足のため、子供たちに十分な食べ物を提供することはできず、
育ち盛りの彼らはいつもお腹をすかせています。

しかし、ユースセンターのスタッフたちは、
それでも彼らが置かれている環境は、刑務所よりはましだと言っていました。

だからこそ、いったい本当の刑務所はどこまでひどい状況なのか、
その現状を見てみたいと思い、お願いしたのです。

 私のイメージとしては、刑務所は陰気なところで人々を精神的にまいらせるような、
ハリーポッターのアズカバンみたいな想像をしていたのです。
が、私たちが見たのは、ある意味衝撃的な事実!

 刑務所の前でペディカン
(バイクの横に4人がけの座席が付いたような、フィリピンの簡単なタクシーのような乗り物)
を降りて、私たちが最初に目にしたのはカラオケを楽しむ人々。

 

 え???

 

さらに、刑務所のオフィサーはかなりのりのいい男性で、
「そうか、見学かい?君たちはどこから来たの?日本のどこ?
東京は美しいところかい?ほんと?100パーセントそう言えるかい?」
みたいな、ひたすら私たちが付いて行けないテンションでしゃべる。

 

こ、ここがけいむしょ?

 


さらに、「囚人たちにインタビューしたいかい?」と言われ、
てっきり私たちは檻みたいなところに今から行くのだと思っていました。
でも私たちが通されたのはただのオフィス。

そこでオフィサーたちにまずはいろいろ質問できます。
なんと、刑務所内にはバスケットボールコートやバレーボールコート、卓球台があり、
囚人たちは退屈しのぎにスポーツを楽しめますし、
カラオケや料理もできます
(包丁やナイフは使う時オフィスに借りに来て使い終わったらすぐ返却します)。
まずこの時点で予想と違いすぎて理解に苦しみます。

 その後、質問タイムがあり、オフィサーにいろいろ聞いてみます。

「刑務所ってどんなところですか?何人の人がいて部屋はいくつあるのですか?」

現在ここには260人の男性と61人の女性がいて、
男性は260人にたいして13部屋だと言うので1部屋20人くらいですね。

「食事は?どんな物が出るのですか?おいしいのですか?」

彼らは1日3食、さらに3時のおやつまで食べていますし、
食事にはご飯とお肉か魚、そして野菜、時にはマンゴーなどのフルーツまで付くらしい。

普通に、今週比較的貧しい家庭にステイしてる私たちより良い物食べてますけど?

 

 そうやって私たちがオフィサーに話してる時に二人男性が増えたのです。
いっしょにいたICUの友達が

「彼らは誰ですか?訪問者ですか?」

と聞くと、そのうちの一人が

「私は囚人です」

と答えます。

は?プリゾナーがオフィスに座ってていいの?


ここ、入り口普通にドア開いてて、外に出られるんですけど?


なにこの自由なかんじ。


正直かなり頭の中は混乱している私たち。

 後で分かったのですが、いちおう彼らはちゃんと閉じこめられているのです。
と言うより、私たち自身がすでに囲いの中にいたのです。

刑務所という敷地はかなり広くて、大学のキャンパスくらいあるんですね。
その敷地の周りは確かに囲われていて出られないんです。
この敷地の中に男子寮と女子寮とスポーツをするところや庭、キッチン、
訪問者の宿泊施設やカラオケをするところ、鶏小屋などがあって、
敷地内なら午後12時から4時まで(土日は朝8時から午後4時まで)、
彼らは自由に寮から出て外で好きなことができますし、
その時間内なら外部の人も自由に訪問することができます。

※続きは次の体験談に書きますね。

とにかく、刑務所の囚人たちは檻の中に閉じ込められているだけではなく、
自由に外(敷地内ですが)に出られる時間があるのだという証拠写真を2枚撮ってきたのでご覧ください。

写真1

 

 

 

 

 

 

 

 1枚目は、オフィスに座っている二人の囚人たちです。
ご覧のように、私も少し写っているのですが、彼らと同じ部屋の中に座っています。

写真2  

2枚目の写真は刑務所の庭(つまり建物の外)で、カメラに向かって手を振る囚人たちです。

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フィリピン、デュマゲッティ体験談その8、子供に自由を!

 

 3週目、私たちは、日本でいう少年院のような、
いわゆる何かしらの犯罪を犯した17歳以下の子供たちを保護している施設でサービス活動を行いました。

前回3月のスタディーツアーで訪れた、プレダの男の子たちの施設みたいなところです。
忘れてしまった人は、

フィリピン体験談その6、笑顔の裏にある物

をご覧ください。

 今回の施設(ユースセンター)で保護されているのは男の子13人、
ゲイが一人と女の子一人(女の子の部屋はもちろん別で女性スタッフと同じ部屋)。
8歳から17歳の子たちです。

前回訪れたプレダでは、施設が人里離れた丘の上にあって、
たとえ脱走しても町に戻るのは難しいという環境でもあったので、
施設にこれといった柵は無く、子供たちは自由に川で泳いだり、
畑仕事をしたりと伸び伸び暮らしていました。

今回のユースセンターは、プレダとは違い、施設がデュマゲッティの町中にあり、
脱走すればすぐ道路に出れてしまうので、
子供たちは施設(っといっても大きな家程度の狭い物)から外へ出ることは許されません。

プレダみたいな広い施設を立てるお金はないんです。
刑務所よりましとはいえ、何となく鶏小屋を思わせます。

 私たちが最初訪れた時、ここの責任者だと思われる40歳くらいの男性が出てきました。
一見怖そうなかんじで、ビザヤ語だったので何を言ってるのか確信はもてませんが、
付き添いのシリマン大学院の学生の答えから予測すると、
「何者だ。ここは身分の分からない者は立ち入れないんだ」
みたいなことを言われてたと思います。

「シリマン大学のサービスラーニングプログラムに参加するためやってきた日本の大学生です。
私は彼らの付き添いでシリマン大学院のソーシャル学部に属している者です」

みたいなことを彼女がビザヤ語で答えていたので。

でも私には何となく直感で分かる、この男性、見た目は怖そうだけど中身は優しい。

 やっと中に入れてもらえて男性はとりあえず"Welcome"と言ってくださいます。
ここの子供たちは犯罪に関わった子でほとんどが男子だとまず説明し、

「それでもいいかい?」と聞かれ、

"Yes"

と答えると男性が2階に呼びに行き、いっきに子供たちが降りてきます。

でもプレダほど子供たちに元気が無いというか、
外に出られないので行動範囲が限られますし、
平均年齢が11か12歳くらいなのでプレダよりもっとかわいいかんじですね。

20人くらい入る小学校の小さな教室くらいのコンクリートの広間に椅子を円みたいに並べ、
そこにみんな座って自己紹介したのですがみんな何か緊張気味。

 私たちは奥の小さな部屋でさっきの責任者の男性から話しを聞き、質問タイムがあります。
プレダほど説明が詳しくなかったので他の二人の学生は、
最初は何を質問したらいいのか分からなかったみたいですが、
FTCJのスタディーツアーや普段の活動を通して、
私はいちおう基本的なことは知っているので、

「殺人やレイプなど重い罪を犯した子もここに来ることができるのですか?(Yes)」

「最大何人まで保護できますか?(21人)」

「子供たちへの教育プログラムやセラピープログラムはありますか?
(整っていないしお金が足りない、それが今1番の問題)」

「釈放後を考えた職業訓練プログラムはありますか?
(洋服を作るなど一部教えているがその子による)」

などなどひたすら質問しまくっていて、男性にも
『こいつはただ遊び半分で来たのではなく、いちおう基本的なことを学んできてる』
というのを分かってもらえたらしく、対応がずいぶん親切になり...。

さらに、何でも希望を言ってみたら叶うこの国なので私は付き添いの大学院生に聞いてみます。

「今週、私たちは本当の刑務所に行くことはできますか?
本当の刑務所とここを比べてみたいのです。
刑務所では全員が一つの部屋だと聞きました、その状況は本当ですか?」

で、交渉の結果、私たちは二日後の水曜日、
本当の刑務所を見学しに行けることになりました。

人々は「金をくれ」などいろいろ言ってくるけどけっして応じないこと、
彼らに何を言われても何を見ても気にしないこと、という条件で。

 さて、再び子供たちと交流タイムですがみんな椅子に座ったままで交われないこの空気。
他の二人のICU生が、ここの子供たちどう関わっていいか分からなくて緊張しているようなのです。
確かに、前回私がプレダの男の子の施設を訪れた際、
ここで保護されている男の子はだいたい16歳くらいで、
やく半数が殺人やレイプを犯した子だと聞いて、
これから先彼らに会うのが怖くなったのを覚えています。

私たちがプレダの男の子たちに会った時は
最初が川遊びだったので打ち解けやすかったですが、
いきなり部屋で会うとどう関わっていいのか分からない、
怖いイメージさえあるのかもしれませんね。

今回は、私は2回目なので、ある一定のことにさえ気をつけていれば彼らと普通に遊べることを知っています。

 ちなみに、その一定のルールとは以下の三つです。

①カメラなど、壊れたり無くなったりして困る物はけっして彼らには渡さない。
 また貴重品はしっかり管理する。
②"I love You"などと言われたとしても、けっして、たとえ冗談でも"Me too"などとは言ってはいけない。
 私たちは冗談のつもりでも、彼らは意外と本気で、本当にもう1度会えることを信じて何年も待っていたりするので。
③あまりにも露出の多い服装は避け、分かれの挨拶をする時も、
 抱き合うなどの過度なスキンシップは避けたほうがbetter
 (外国だと、男女でもお別れの挨拶で抱き合うことは普通によくあります)。
 彼らは少年院に隔離されているので、同年代の異性と会うことは少なく、
 ...言葉は悪いですが飢えているので、下手に刺激しないことです。

以上の三つのことさえ頭に置いておけば、彼らと楽しい時を過ごすことができます。

 話しを戻しましょう。
いつまでたっても打ち解けない、誰もが座ったままのこの空気。
私はおもむろに鞄から折り紙を取り出し、みんなが見てると信じながら紙飛行機を折り、
円の向かい側に座っている男の子たち辺りを狙って飛ばしました。

"Thank you"一人がそう言って受け取りました。

空気が少し和みます。

私は続けて四つの飛行機を作り違う方向に飛ばします。
もうみんなは座っていません、飛行機を飛ばし始めます。

さらに鶴を折って、少し立ち上がって男の子がいると思われるところに行って差し出します。

"Thank you"

また一人受け取ってくれます。

他の二人の友達たちはまだ様子を見ています。
後で彼女たちから聞いた話しですが、子供たちの多くが、刺青をしていたり、
いかにも不良という身なりをしていたりで、
その見た目がよけいに打ち解けにくくしていたそうです。

幸いにも、私は彼らの刺青や髪の色が見えないので、何も壁を感じることが無かったのでした。

 私の後ろではさっきの責任者の男性が静かに佇み、全体を見守っています。
私は後ろを振り向き、
「新聞紙のような、大きな紙はありませんか?」
と聞いてみました。

「どんな紙でもいいのかな?」

「はい」

「何枚ほしい?」

「ええっと...」

「1枚、2枚?...、5枚くらいかい?」

「はい、じゃあ、5枚お願いします」

男性は奥のオフィスから紙を取ってきてくださいました。
私が考えたのは紙鉄砲です。
男の子たちに折り紙などという繊細な物を手渡すより紙鉄砲のほうが絶対うける!

案の定、紙鉄砲は大人気で私は5こ以上作り、
さらに1番近くにいた14歳の男の子には作り方を教え。

折り紙を折っていたころは、脇に白杖を挟んで持っていたのですが、
大きな紙で紙鉄砲を折るとなると、白杖はたんなる邪魔者にすぎません。

折りたたんで鞄にしまうこともせず、伸ばした状態のまま私はそれを床に投げ捨て、
次々と自分の紙鉄砲をもらいに来る子供たちの要求に答えるため、紙鉄砲を作り続けます。

男性は、私が投げ捨てた白杖を黙って拾い上げ、後ろの壁に立てかけてくださったのでした。

ようやく、他の二人も動き出しました。

彼女たちは折り紙で手裏剣を作って手渡します。
男の子たちの外に出られなくて有り余った力が手裏剣に注がれ、
どんなテクニックなのか、折り紙の手裏剣はまるで本物のように天井まで上がってから壁にぶつかり、
跳ね返って落下します。

3時間たって帰るころには、プレダほどなれなれしくはないもののずいぶん仲良くなっていました。


 ※写真は全て、ユースセンターの子供たちです。
折り紙を折る子供たち、自分たちが作った手裏剣を重ねている子供たち...。外へ出ら
れなくて、遊ぶ物も無くて常に退屈している子供たち...。
子供にもっとも必要なのは、自由に動き回れる環境だとつくずく思いました。

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フィリピン、デュマゲッティ体験談その7、大学生の遊び場

 7月7日、水曜日の昼は私たち他国から来た大学生3人(女子2男子1)と、
村に住むシリマン大学の学生(女子2男子1)で
都会(っといってもバイクで20分くらいしか離れてない)に遊びに出かけました。

マニラでは車が多く公共交通手段はジプニーかタクシーでしたが、
ここデュマゲッティでは、彼らの方言で「ペディカン(正式名称はトライスクル)」という、
バイクの右側に4人向かい合わせに乗れる椅子がくっついたみたいな乗り物です。

これ、がんばればバイクの部分に3人乗りして、4人掛けの椅子に6人座り、
さらに座席に乗る時の1段段差のところに一人立てば(屋根の部分を持つ)、
最高10人まで乗れるのです(さすがジプニーの屋根に乗るのがあたりまえのこの国だけある)。

とにかくそのペディカンでデュマゲッティのシリマン大学の近くまで行きます、
彼ら大学生の遊び場で、ロビンソンというフィリピン各地にある大型のショッピングモールを始め、
カフェやバー、服やさんや携帯ショップなどが道路沿いにあります。

 たぶんイメージとしては、八王子とか千葉とか埼玉の田舎のほうとかに住んでいて
そこから出たことがなかった子が、青学とか立教とかに受かって都心の大学に通うようになり、
最初は彼らも都会が物珍しくて、最近ようやく慣れてきて遊び方も覚えて、
外国からやってきた友達がいるので原宿辺りを案内することにした...、
彼らにとってはそんなのりだと思います。

 まずは、私たちがステイしている村、
ブルミントンで唯一アバカという木の織物などから鞄を作れる人、
その人の作った物を売っている店がこの辺りにあるので、そこを訪れました。

布や竹のようなのを網会わせたりした壁掛けや、
かごバッグ、ビーズや貝殻のアクセサリーなど。

値段は私が買った鞄で290ペソ、財布が110ペソと、
手作りなだけあってフィリピンにしてはちょっとお高め(前回160ペソでワンピースが買えました)。

まあ今度Co-co Lifeの打ち上げなどに参加する時には持って行きますので、
私と直接会える人には現物をお見せします。 

 それから彼らシリマンの学生たちは、ここに最近新しくできたバーに行こうとしたのですが、
バーが開くのは午後5時、今は4時半、...っということで向かいの喫茶店で時間をつぶすという、
なんとのんびりした大学生活。

しかもどうせバーもフィリピンタイムなので、5時という名の5時半、あるいは6時にオープンですから!
喫茶店で何となくしゃべりながら時間をつぶし、5時45分くらいにバーに移動。
飲み物をすぐ頼むわけでもなく、しばらくはまたダラダラとしゃべる...。

これぞフィリピンの田舎の大学に通う学生の日常だそうです。
お金が無いわりには日本のようにバイトをするわけでもなく、
ICU生のようにレポートや課題に追われて徹夜の体に
眠眠打破やレッドブルー(ともに目を覚ますためのドリンク、ICU生愛用)を流し込むわけでもなく、
いつまでもだべっていられるこののどかな1日。

アルコールとコーヒーとコンデンスミルクの混じったお酒をピッチャーで注文し、
二人で一つのグラスで回し飲みです。

日本では、一人一人飲みたい物を注文し、
お金も自分が飲んだぶんを払うのが普通かなと思いますが(少なくともICUではそうなのですが)、
ここフィリピンでは一つのグラスでみんなで廻し飲みして、お金を割り勘するのが普通だそうです。

とにかくいつでも一体感を味わっていたい彼らの文化と言うか...。

 ちなみにバーの中の雰囲気ですが、いっしょにいたICUの友達の情景描写によると
「椅子やテーブルも木でできてて、一見いいかんじの暖かみのあるおうちってかんじなのに、
わざわざ電灯を暗くして、奇抜な色のライトで照らして、
アメリカで流行ってるダンス ミュージックを大音量で鳴らしてる...、
すべてがミスマッチなかんじ」だそうです。

 あと、日本だとみんなたいてい電車で帰るので
最終に乗り遅れたら始発まで待てるように飲み屋などは朝5時くらいまで開いていますが、
フィリピン(っというかデュマゲッティ?)ではどうせみんな歩きなので、
午前3時ごろには店が閉まります。

とりあえず、現地の大学生の遊び方を体験するという、スタディーツアーでは学べないstudyですね!!

 その他、夕方はいつも、ステイしている家族の子供たちや、近所の子供たちと遊んでいました。
前回フィリピンを訪れた時同様、この国ではなぜか私は、10歳から13歳くらいの男の子にやたらもてる...!!
ステイ先の11歳になるホストブラザー、クリスチャンもその一人で、
妹たちを押しのけてでも私の手引きをしてくれました。

 でもですねえ、やっぱりいっしょにいて楽しいのは女の子です。
13歳になるホストシスターのクリスティーンにはいろいろと日本語を聞かれ、
しかも彼女が聞いてくる単語は最初は「おはよう」とか「名前は何?」などの挨拶だったのですが、
次第に恋愛に必要な言葉ばかり。
「好きです」とか「かっこいい」に始まり、
最終的には、「あなたの彼女になりたい」などのセンテンスをノートに書きこんだクリスティーンなのでした。

「ねえ、それ、いつ使うの?まずは日本人の男の人に会わなきゃいけないんじゃないの?」
と私が言うと、笑っていましたが...。

 私と1番仲良くなった女の子は、ステイ先の子ではないのですが、近所に住む、10歳のカミアです。
まずは、写真をご覧ください。

公園で彼女が私のために摘んでくれた花を持った私と、その隣に座るカミアです。
いやあ、とにかくとにかくこの子がかわいいのです。
私のことが大好きで、学校から帰ってきて宿題を済ませると、
かならず私がステイしている家にやってきて、
夜10時ごろまでいっしょにいます。

村の人が集まってパーティーでゲームをする時、
蝋燭を持って鬼ごっこをして、吹き消されたら負け、というゲームなど、
ときどき私が参加するのは危険で難しいゲームがあるので、
輪には入らず見学していると、彼女もゲームには参加せずにずっと私の隣にいてくれるのです。

また、彼女のお兄ちゃんが日本語を覚えるための本を持っていて、
そこにはI love youの日本語訳が、「好き好き、大好きだ」という風に書かれているのですが、
カミアはそれを覚えて、私の傍へやって来ては、「好き好き、大好きだ」と言うのでした。

彼女とは、お互いに知っている折り紙を教え合ったり、公演ではいろんな花の名前を教えてくれました。
彼女の「カミア」という名前も、花の名前なのです。
日本語で何の花なのかは分かりませんが、
木に咲く花で、カーネーションの花のような形をした、かわいい白い花です。
けっして裕福な家の子ではないですが、精一杯お洒落をしようとし、
着ている洋服もかわいいですし、公演で摘んだ花を髪に刺していたり、シュシュを手首に付けていたり...。
金曜日にお別れする時には、片手に収まるサイズのかわいいテディベアを私にくれました。

...顔もかわいい、洋服もかわいい、言うことも性格も行動も、そしてくれる物もかわいらしいという...。
こんなかわいい子が世の中にいるのは犯罪ですから...。
ってか、私の発言が1番犯罪ですから...。
思わず日本に連れて帰ってこようかと考えてしまうほどの女の子です。

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フィリピン、デュマゲッティ体験談その6、カルチャーショック?

 7月6日火曜日、私たちはフィリピンでのバースデー パーティーに参加させてもらいました。

私たちがステイしていた村の人ではないのですが、
村で唯一アイスクリームを作れる女性の姪っ子さんの誕生日だったので、
ジプニーで夜出かけたのです。

フィリピンでは、バースデーパーティーは大勢で楽しむことが大切であり、
友達か赤の他人かは問いません。
飛び入り参加大歓迎!
親戚.友達.近所の人.私たちみたいな知らない人...50人以上の人が集まるこのパーティー、
Birth day girlは実はようやく3歳になったばかりの女の子!
親戚や近所の人は何かしら食べ物を作って持ち寄ります。
何人来るかがまったく予想できないので、100人ぶんくらいとにかく多く準備し、
みんなはバイキング形式で食べ物を取り、椅子が足りないので立って食べてる人も。
ただこれだけ。
これが誕生日会なのです。べつにプレゼントを渡すわけではなく。

 

 次。

もっと理解できないのはフィリピンのお葬式です。

私と、もう一人ICU生の女の子がホームステイしていた家は、6人家族でした。
30代前半のお父さんお母さんと、13歳の長女クリスティーン、
11歳の長男クリスチャン、9歳の二女クリスタル、そして5歳の三女チコーイです。

 7月2日に、この家族の曾おばあちゃん(98歳)が亡くなったらしく、火曜日の夜お葬式に出かけました。

でも、何かまるで夜の散歩か夜店にでも行くような雰囲気で
子供たちはふざけ合い長ら道を歩いて行きます(夜9時ごろです)。

さらに途中で駄菓子屋さんのようなところに寄ってスナック菓子を買って...。

いよいよ曾おばあちゃんの家(ブルミントンから歩いて10分)にやってきました。
リビングに大きなガラスケースが置かれていて、その中に棺が入っているらしく、
顔だけみんなに見えるようになっています。

人々は来るとまずそこを訪れ、亡くなった人の顔を見るのですが...
な、なんと、子供たちは棺を前にスナック菓子を食べているではありませんか、
まるで映画館にでもいるかのように。

たぶんカトリックだと思うのですが、
個人的に棺の中の顔を見ながら祈ることはあるかもしれませんが、
日本みたいにみんなが座ってお坊さんが来るわけではないので、
顔を見たら、それでおしまいで、家の外に出ます。

 そこにはまた信じられない光景が。

家の外ではビンゴゲームが行われていて、
みんな真ん中のテーブルに1から5ペソくらいのお金を出して、
なんとビンゴでギャンブルをしているのです。

勝ったお金は勝者が、お祈りのところにお供えするのですが、
それにしてもこの夜店みたいな雰囲気がお葬式?
フィリピンというこの国、知れば知るほど掴めないですよ。

 聞いた話しによると、
亡くなってから土に埋められるまでの1週間(土葬か火葬かは半々くらいみたいです)、
知り合いの人は入れ替わり立ち替わり毎晩亡くなった人に会いにきます。

とくに亡くなってから三日目にあたるお葬式の日はたくさんの人が集まり、
その多くが朝5時ごろまで、亡くなった人といっしょに夜を過ごします。

だからたいくつしないよう、スナックやポップコーンを持ってきたり、ビンゴをしたりするのです。

「悲しくないの?」と聞くと、

"No"との返事。

どうも日本人には理解しがたい考え方と、宗教に基づいた捉え方があるのかもしれません。

私たちの感覚では死はその人との別れであり、嘆き悲しんで、お葬式は厳かに行われます。
でもこっちでは、せめてこの世から離れる時くらいぎりぎりまで知り合いに囲まれた
楽しい雰囲気で送り出してあげよう、夜を一人にしないであげようという考え方で、
いつもどおりのみんなの姿を見せます。

喪服も何も着ません。 

お葬式で悲しむどころか、スナックを食べながら、ビンゴゲームで賭けをして盛り上がるという、
この文化の違いはちょっとカルチャーショックでした。

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成長☆

こんにちは、スタッフのkotaroです。

編集部には、大きな水槽が2つあります。

1つは珊瑚の水槽。

もう1つはディスカスという熱帯魚の水槽。

ディスカスは夫婦で子育てをする魚です。
孵化した稚魚はママの周りにいて、パパは寄ってくる他の魚を撃退。
ママの身体からはミルクのようなものが出ているらしく、
稚魚はそれを飲んで成長するのだそう。

写真は下手ですが、
黒がママで、黄色がパパです。たぶん。

今回3度目の孵化。
1回目、2回目は食べてしまったのか、ある日突然子供たちが消えました。

でも今回はなんだか順調に成長。
無事に育つと良いな~(*^v^*)

フィリピン、デュマゲッティ体験談その5、オンリー1


 性的虐待という現実を目のあたりにして重い体験をした1週目とは打って変わり、
2週目は子供たちと遊ぶ、大学生といっしょに遊びに出掛けるなど楽しいプランでした。

 2週目に訪れたコミュニティは、LCP(Little Children of Philippines)というNGO団体です。
LCPがやっていることは主に五つ。

一つ目はほとんど無料で家を立ててあげて、
その家を家族に月400ペソくらいの払える値段で貸し与えるハウス プロジェクト
(普通に家を借りると一部屋とキッチンしか無い家でも月3000ペソくらいします)。

二つ目は小学校に入る前の5歳の子供たちに無料で読み書きを教えるプリスクール。

三つ目は、ストリートチルドレンに近いような貧しい子供たちに、
学校にちゃんと来れば年間200ペソで毎日昼食を提供するスープキッチン(授業料は無料)。

四つ目は親のいない子を保護して学校にも通わせるシェルター プロジェクト。

五つ目は、生ゴミと土を混ぜたところにたくさんミミズを入れて良い土を作ってその土を売るプロジェクト、

この五つです。

 とはいえ、私たちはべつに1週間ずっとそのオフィスにいたわけではなく、
LCPがハウスプロジェクトで支援している村の一つ、ブルミントンにホームステイしていました。

 まずはここブルミントンの村の雰囲気を紹介しましょう。

まるで「世界不思議発見」や「世界ウルルン滞在記」などでやってきそうな、フィリピンの田舎の村。
ここには32建の家があります。

 まず皆さんに理解しておいていただきたいのは、日本とフィリピンの近所付き合いの考え方や、
友達関係の考え方の違いです。

日本では、どんなに仲が良い友達でも、出かける約束をしたら時間を守りますし、
ある日突然相手の家に泊まりに行く、なんてこと、あまり無いですよね。

フィリピンではむしろ、事前に「何月何日に遊びに行っていい?」などと
事前にアイントメントを取ることのほうがほとんどありません。

友達に限らず、先週裁判所に行った時も、警察署に行った時も、私たちは事前に連絡することなく、いきなり言って、
「日本から来た大学生なので見学させてください」とその場でお願いしてOKされてきたのです。

これが日本とフィリピンの1番大きな違いではないかと思います。

村でも、家の鍵など寝る時くらいしかかけなくて、むしろ暑いので玄関は開けっ放しで、
いつでもどんな時でも誰でもウェルカムなのです。

もし友達が来た時、洗濯物や料理をしていて忙しそうだったとしたら、友達もいっしょに洗たくや料理を手伝います。

村の子供たちは、開け放たれた家々を、自由に出入りするので、
夜遅くになってみんながそれぞれの家に帰るまで、私たちにはどの子がどの家の子なのか分かりません。
村全体が家族で、家は一つの部屋にすぎない、といった感じです。

 また時間の感覚も違います。
そもそもフィリピンで人々が時計を見て生活するようになったのは最近のことなので、
あまり時間に正確に動く習慣はありません。

むしろ、待ち合わせより30分、いや時には1時間くらい遅れてやってくるのはあたりまえです。
いやむしろ、日本人がまるでロボットのように、毎日時計とにらめっこし、
時間に追われてピリピリしながら心に余裕の無い生活をしているだけでしょうか。

なのでフィリピンにいる時は私たちも、「明日朝9時にね」と言われたら、
9時15分くらいになってから「そろそろ出かける準備でもするかあ」と思い始めて、
9時40分くらいに待ち合わせした人と会って、実際に出かけるのは10時近い...といったかんじでした。

 ブルミントンの村の話しに戻りましょう。

この村を発展させるため、LCPは村人たちに職業訓練をしています。

何か手に職を付けられれば、仕事を得られるのでお金が手に入り、
お金を使って自分の生活を豊かにしすることができるからです。

LCPは村人全員に同じ職業訓練をするのではなく、
その人の個性なども活かしながら、一人一人違った技術を教えています。
みんながオンリー1の能力を持っていて、お互いの技術を活かして助け合いながら生活しているのです。

例えば、私たちがステイしていた家のお父さんは水道工事ができます。
二軒隣の家のお母さんは、手作りのアイスクリームを作ることができ、それを一つ5ペソで売っています。

他にも、アバカという木から糸を紡いで、それで織物を織ることができる女の人もいます。

 

豚と鶏は村全体の物として共同で飼っています。


これも、鶏の世話を仕事にしている人や、豚の世話を仕事にしている人がいます。
村の端には川が流れていて、ときどきお母さんたちが洗濯物を持って、まさに「川に洗濯」に出かけます。

村の真ん中には公園があって、午前中はまだ小学校に行っていない小さな子供たちが遊んでいます。
午後4時を過ぎると、小学生たちが学校から帰ってくるので、公園は賑やかになります。

私たちを迎えるウェルカムパーティーや、私たちを送り出すお別れパーティーなど、
村の人々はよく、夕方その公園に集まって催し物を行います。

そういう時は、例えばギターを持っている家はそれを持って来る、
スピーカーを持っている家はそれを提供するなど、
それぞれが自分のできる仕事やパートを担当し、お互いの持ち物を合わせてパーティーを作り上げます。

パーティーでは、大人から子供まで参加できる様々なゲームをやったり、
子供たちがダンスを披露したり、大学生たちがバンドを組んで披露したり...。

パーティーが始まる時など、何かでみんなを公園の広場に集めたい時は、
鐘の代わりに、公演にあるジャングルジムみたいな物を石で叩いて知らせます。

みんな家のドアを開けっ放しにしているので、それで十分聞こえるのです。

 彼らの生活はけっして裕福だとは言えません。

毎日30度を超える常夏のフィリピンなのに、どの家もクーラーなどありませんし、家によっては水道もありません。
でも、一人一人の個性や能力を受け入れて最大限活かそうとする雰囲気と、
お互いがお互いを思いやる暖かい雰囲気があります。

次の体験記では、この村で行われたお葬式や、フィリピンのバースデーパーティーなど、
文化的行事について書いていきたいと思います。


 ※写真の1枚目は、私たちといっしょにサービス活動を行っていた香港からやってきた大学生の男の子が、
   アイスクリーム作りを体験している写真です。
   バケツのような入れ物に、ミルクと砂糖とマンゴーを細かく切った物を入れ、
   それを直径3センチから4センチくらいの太い木の棒で、押し付けるようにしながら1時間くらいかき混ぜたら、
   アイスクリームができあがります。後は、氷で冷やすだけです(冷凍庫などここにはありません)。
  2枚目は、 アバカの木から取った糸を使って、織物を織っている...、その機械(機械と言ってもすべて手で動かします)と、織りかけの織物です。
  3枚目は、豚小屋に入っている豚です。これは村全体の物として共同のスペースで飼われており、
   私たちが訪れた時には、男女一人ずつがそれぞれ小屋の掃除をしていました。

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フィリピン、デュマゲッティ体験談その4、卵が先か鶏が先か?

 今回のデュマゲッティ体験談では、開始早々暗くて重い話しばかりを書いてしまってごめんなさい。

ここからは気軽な話しになって行きますのでご安心ください。
今回は、まさに「フィリピンでしかできない体験」の話しです。

  カサ-エスペランサ滞在最終日の夕方、お別れパーティーとして、
女の子たちとみんなで出かけ、ビーチを散歩した後、屋台でテンプラとバローを食べました。

テンプラも日本とは違い、中身は魚のすり身なのでちくわみたいな感じで、
幅1.5センチ、長さ10センチくらいのスティック状になっているテンプラが、竹串にささってるんです。

 さて、バローとは何なのか、皆さんご存知ですか?

フィリピンではお祝い事やお客様を持て成したりする時に食べる御馳走の一つです。

その正体は...、

生まれる前の雛が入ったゆで卵です。

もっとリアルに説明しましょうか?
もう半分雛になりかかった卵を茹でて、それを剥いて食べるってことなんです。いやあ、恐ろしい。

 でも、せっかくフィリピンに来たのですから、新しい経験へのチャンスを逃すのはもったいない。

ちゃんと食べましたよ!

フィリピン人でさえ、明るいところで本体を見てしまうとグロテスクで食べられなくなるので、
夜の屋台でしか売ってなくて、明かりの無い暗いところで食べるんです。

でもバローにも、雛の育ち具合に合わせていろんな種類があって、
もうかなり雛ができあがっているバローもあるのですが、
それだとショックが大きいからと、1番雛が小さい種類の物を買って来てくれました。

 味はほとんど茹で卵で、何も言われなければ、あるいは見なければ、
むしろ普通の茹で卵との違いがあまり分からないかもしれません。

ただ、殻をちょっと剥いたところでスープみたいなのが出て来るので、
まずそれを飲むのですが、チキンスープの味がするのです。

もうこの辺りでいろんな意味でドキドキ...、

ジェットコースターの落ちる直前の気分に似ています。

まじ、次に殻を剥いたらくちばしとかに指が触れたらどうしよう、と。

でも実際には触感としては中に雛の形は無く、
ただ茹で卵にしては殻と卵の間に異様なほど空間ができている場所が所々あり、
そして何か黄身がドロドロしてる感じで、その水分がチキンスープの味なんです。

いやあ、まあ味は普通に茹で卵なのでまずくはないのですが...、好奇心と怖いのと両方ですよね。

 ちなみに、私たちICU生の中に一人裏切り者がいて、
自分は卵が嫌いなのでバローは食べずして、さらにフラッシュをたいて中身の写真を撮ったやつがいるのですが、
それを見ると卵の中に目があるのが分かるらしくて、先に写真を見てしまうと、もう絶対食べられないそうです。

っというわけで、バローの中身の写真はあるのですが、ここには掲載しないことにします。

でも、私たちは普段平気で卵を食べ、鶏肉も食べているのに、その中間地点の物を見せられると、
何だかいかにも命を食べている、幼い命を今自分が奪っているかのような気分になるから不思議です。

 私たちは1番雛が小さい段階のバローを食べたので、ほぼ普通の茹で卵でしたが、
卵が産まれてから18日くらいたったバローを食べると、
中に羽のような口に残る物があったり、軟骨が感じられた理するそうです!!

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カサ-エスペランサでの滞在最終日である7月2日は、朝からトラフィキングやサイバー セックスについて学びました。

ごめんなさい...

英語で具体例などを出してもらいながら意味を何となく理解しているのでうまく日本語にできないのですが、
たぶん、トラフィキングは人身売買(児童ポルノのビデオとか写真とか)、
サイバーセックスはいわゆる性的虐待をしている様子や露出の多いかっこうでダンスなどをさせて、
それらの様子をムービーとして世界中にネット公開することだと思います。

 午後からは、そのトラフィキングなどに関するDVDを見て...。
なかなか生々しいショッキングなDVDなのですが
(主人公の12歳くらいの女の子が誘拐されて監禁されて、いろいろと利用されて、
最終的に警察がガラスを割って突入するまで)、
まあそれを見てかなり暗い感じになっているところに、私たちが受け止めなければならない現実は、
このような映像がネットで公開され、それを利用している人の割合が1番多いのが日本だということです。

年齢認証のボタンさえ押せば誰でも簡単にアクセスできる、
へたすると無料のアダルトサイトで公開されているムービーの被害者に、
何千人ものフィリピンの子供たちがいます。

こういう子供たちを探しに行くリクルーターはなるべく都会から離れた山奥の村などに行き、
10歳くらいの女の子を中心に「いい仕事がある」と声をかけます。

田舎ならネットがつながっていないですし携帯なども持っていなくて、
情報源が少ないので売春産業を知らないのです。

そして児童ポルノなど、昼間にたった2時間ほどダンスをするだけで400ペソもらえ
(100ペソあればレストランで1食食べることができます、フィリピン人の大人の1日辺りの平均的な収入です)、
おまけに3食と寝る場所が保証されるのです。

この問題は複雑で、被害者が自分は被害者だとは思ってない場合が多いのです。
なぜなら普通では得られない量のお金をもらっていて、もし加害者が逮捕されたら自分は仕事を失ってしまうので、
警察が救助に入った時に警察に対して怒る被害者さえいるのです。

もう一つ、直接レイプされたとかではなくダンスしたり水着を着たりしてるだけでは、
小さい子供たちは自分が被害に合っているとは思っていませんし、
それがネットで世界中の人に見られているだなんて知りません。

とにかく私たちは、自分の情けない姿を、ネットを開いて自分自身で見た時の気持ちを考えろと言われました。

皆さんもちょっと考えてみてください。

例えばフィリピンに旅行に行って、そういう産業に引っかかったとします
(外国人が被害者になることは実際にはありえませんが)。
衣装を渡されて、カメラの前でダンスをしてお金をもらった...。
日本に帰ってきてネットを開いて、露出の多い服装で踊っている自分自身の姿が出てきたら...。
それを自分の家族や友達も自由に見られるのだと知ったら...。

 その後裁判所に行き、裁判は見学できなかったのですがチーフの人に話しを聞き、
また警察署に行って警察官にインタビューしたりしました。

 

とにかく、繰り返しになりますが、日本には強制的にサイバーセックスをさせられている被害者などまあいなくて、
なのに気軽に見ている利用者がたくさんいる...。

むしろ、自分たちの楽しみのために、
フィリピンの子供たちを利用していることさえ知らない人がほとんどではないでしょうか。

しかも、彼女たちの平均年齢が11歳くらいだということも。

日本では児童ポルノや人身売買はかなり厳しく取り締まられます。
だからこそ、そのような映像を入手したい人は、法律が厳重では無い途上国へ行くのです。
日本人やアメリカ人はお金を持っているので、お金の力で幾らでも人を引き付け、子供たちを買うことができるのです。

もっと悪質な場合としては、お金を使ってフィリピン人の大人を雇って、
その人に子供の売買や映像作りを任せて、本人は日本やアメリカに逃げ帰って、収入だけ得ている人もいます。

これらの現実を裁判所でも聞き、現在トラフィキングの被害者が起こしている裁判のケースや、
アメリカに逃げ帰った加害者を如何に逮捕するか(フィリピンの法では裁けない)など、
多くの人が苦労している話しを聞き...。

私たちが滞在しているカサ-エスペランサにも、
トラフィキングの被害から保護された、アイビーという二十歳の女の子がいます。

彼女は高額なお金を得るため、高校を中退してまで、その仕事に引かれて行ったのです。

もういい、もうこれ以上この現実を見たくない...、
3月にプレダ出会った女の子たち、
そしてカサ-エスペランサへ来てからの二日間の経験は何とか受け止めて消化してきたものの、今日初めてそう思いました。

日本人として、この場にいることが辛い。

 日本は先進国であり、途上国を支援してあげている...、そう思ってる人、この読者の中にもいませんか?
確かに、支援もしています。

でもその一方で、自分たちの楽しみのために、途上国の子供たちの人生を台無しにし、
麻薬や鉄砲など日本ではできない取引を途上国に行って行い、
木材や石油などの資源をお金の力で買い上げ、安い賃金で途上国の人々を雇い、
時間のかかる単純作業や危険な労働をさせ...。

彼らのおかげで私たちの豊な生活は成り立っているのです。
はたして、支援を受けているのはどっちでしょうか。

私たち日本人こそ、彼ら無しには生きていけないのではないでしょうか。

※写真の1枚目は、デュマゲッティの裁判所を正面から撮影したものです。
2枚目は、女性警察官と私たちICU生が並んで撮影した写真です。

 

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お買いもの♪

こんにちは、kotaroです。

昨日は1歳半の甥っ子の、夏物セールと秋物お洋服を買いに

デパートへ行ってきました!

外はこんなに暑いのに、中はすっかり秋色。

コートを羽織ったマネキンまでいました。

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フィリピン、デュマゲッティ体験談その2さらに続き(ケース3)

3人目のケースは、11歳のジェネディンです。

 7月1日、私たちは、スタッフやジェネディンとともに彼女の家を訪れ、
直接彼女や彼女のお母さんから話しを聞きました
(施設スタッフがビザヤ語から英語に通訳してくれました)。

ジェネディンは8人兄弟の7番目で、末っ子の妹とはずいぶん年が離れており、
上の6人はすでに家を出ていて、両親は共働きで夜働いています。

半年ほど前、彼女の18歳になるお姉ちゃんが、50歳の男性と駆け落ちしました。
32歳も年が離れているので、男の人は絶対遊び目的だからと家族親戚はみんな反対したのですが、
お姉ちゃんは聞く耳を持たず、駆け落ちしてしまった後で、実はその男性には奥さんがいることを知りました。

奥さんはマニラに出稼ぎに行っていて、めったに帰ってこないのです。
相手の50歳の男性はいわゆる若い女の子に対するセックスマニアで、
奥さんとの間に生まれていた実の娘をレイプし、そのことで警察に追われる身となりました。

ジェネディンの家は両親が夜働いていて、家にはジェネディンしかいないので、
お姉ちゃんとその男の人は夜にジェネディンの家に逃げて来ました。

二人はそこでさんざんお酒を飲み、10時を過ぎたころ、酔ったお姉ちゃんは深い眠りにつきました。
ジェネディンもまた、普通にぐっすり眠っていました。

夜11時。

酔ったその男性はジェネディンの手足を縛り、そして彼女をレイプしたのです。
ジェネディンが目を覚ました時にはもう身動きがとれない状態だったそうです。

酔って寝ていたお姉ちゃんは妹がレイプされていることに気づけず、最後まで眠っていました。
ことが終わって縄をほどいた後、男の人は
「もしこれを誰かにしゃべったら、お前の両親を殺すぞ」
と言いました。

翌日、両親が帰宅する前にお姉ちゃんたち二人はこっそり帰っていき
、両親は何も知らずに昼を過ごしました。

でも夕方、彼らはまたやってきたのです。
男の人は、両親の顔色を見て、ジェネディンが昨夜のことをすでに話したか否かを探りに来たのです。

両親が何も知らないのを見て、彼は安心して帰って行きました。
でもジェネデインは、このままではあの人は毎晩やって来て自分をレイプするのではないかと恐ろしくなり、
遂に両親に打ち明けました。

夜中の1時でした。

翌日午前7時、お母さんが警察に報告しました。
でも、お気づきのとおり、彼女がレイプされたのは二日前の午後11時。
もう24時間以上たっていますよね。

1ヶ月の調査の結果、6月16日、彼はようやく逮捕され、現在刑務所にいます。
実の娘をレイプしたケースと合わせて、これから裁判が始まります。

加害者が刑務所にいると知っていても、
「自分は両親にしゃべってしまったから、いつか彼の親戚が、あるいは彼がやって来て、
お父さんお母さんを殺すかもしれない」
という彼女のおそれは消えません。

それまで成績優秀だった彼女の成績はとたんに下がり、自分がここにいたら両親が殺される、と思っているのです。
...もうこれは家族だけでは解決してやれない、そういう理由でジェネディンは今施設に預けられています。

私たちとともに我が家へ帰った時、1ヶ月ぶりにお母さんに会えて彼女はとてもうれしそうでした。
ジェネディンの家はデュマゲッティの隣の市にあり、彼女と面会に来るには往復で40ペソかかります。
彼女の家庭にはそのお金がありません。
そして1時間くらい家に滞在して帰る時、私は彼女が別れを惜しむと思ったのです。
でも彼女はあっさりと「バイバイ」と言って、元気にジプニーに飛び乗りました。

それがすごく不思議で、かつ何か複雑な物がある予感がしました。
彼女が帰る時、小さな妹はお姉ちゃんとまた長い間会えなくなることを悟って泣きだしました。
妹の気持ちは、きっとジェネディンも同じなんです。
でも、ここで泣いてしまうとますます分かれるのが辛くなり、お母さんにも辛い思いをさせてしまう...。

11歳のお姉ちゃんは平然を装わなければならなかったのです。
さらに、後でスタッフに聞いた話しですが、彼女は確かに家族に会いたいし会えて嬉しい、
でも自分がここにいたら両親を殺しに来る人がいる、だから両親を守るため長くは家に滞在していたくない、...そうです。

......私の下手な感想などはここには書かないようにします。
ただとにかくこんなケースがあって、プレダでは説明を聞いただけでしたが、
今回実際にその家やお母さんにお会いして...、
事前にいろいろ知っているとはいえ、受け止めきれないものがあります。

そして、これらの過去をすべて背負って、今日私たちの前で立派に証言して、
これからやく1年、いやもっと、家族から離れて裁判に臨まなければならないのは、まだ11歳の女の子...。

.........


 もう一つ。被害者はジェネディンだけではありません。
自分が本気で愛して駆け落ちまでした相手に実は奥さんがいて、さらにその相手が妹をレイプした...、
18歳になるお姉ちゃんはもう2度と家に帰って来ることができません。

お互いに家は近いので見かけることはあるそうですが、お互いけっして話さないそうです。
お姉ちゃんは今たった一人で、誰の援助もありません。
娘をレイプから守れず、また現在も自分たちでは守れないので施設に預けるしか無く、
お金が無いので面会にも行ってあげられない両親もまた被害者です。

 実のお父さんが娘をレイプする、あるいは近所の小父さんが、お兄ちゃんが、親戚が...。

どうしてこのような悲しいできごとが後を絶たないのでしょうか。
その根本には、やはり貧しさがあります。
お金が無い、明日の食事さえ食べられるかどうか分からない、
いくら頑張って1日10時間以上仕事をしても、家族が1日1食食べられるだけの賃金しか得られない...。

そんな現実から逃げだそうと、お酒を飲んだお父さんなどが、事件を起こしてしまうのです。

 また、いわゆる日本の明治時代くらいの考え方がここフィリピンには残っていて、
家族はお父さんの言うことを聞くものであり、女性や子供の権利は男性ほど強くはありません。

そうすると、
「この娘は自分が稼いだ給料で食べさせてやっているのだから、自分の好きなように娘を扱って何が悪い」
というのが男性側の言い分なのです。

さらに、お父さんが娘をレイプしたりした場合、お母さんが責める相手は、お父さんではなく娘な場合がよくあります。
お母さんにしてみれば、自分の恋人を娘に取られたような気分になり、嫉妬から娘を加害者扱いする場合があるのです。
それだけでなく、全体的に男性の地位や信用度のほうが高い国なので、レイプが起きた際、
「きっと女の子のほうがショートパンツやミニスカートなどを履いていたに違いない」
「女の子のほうが男性を誘惑するような態度をとったに違いない」
あるいは「18歳以下で男性と関係を持った女なんて人間として最低だ」
などと、被害者なはずの女の子が周囲から軽蔑される傾向にあります。

 何れにせよ、考えてみてください。ジェネディンはまだ11歳、小学校5年生なのだ、ということを。

 

 ※写真は、ジェネディンの家の前に立っている、彼女のお母さんと幼い妹です。
この写真を撮る直前まで、幼い妹はお姉ちゃんとの分かれを惜しんで泣いていました。
いいえ、写真の中でもまだ泣いているかもしれません。

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 二人目のケースは、この子もよく私の面倒を見てくれる、14歳のマリーです。

彼女は実のお父さんにレイプされました。
で...、ここはちょっと私が英語での解説をあまり理解できてなくて詳しいことは説明できないのですが、
フィリピンの法律では、事件が起きてから24時間以内に警察に訴えればすぐ加害者を逮捕できますが、
24時間を超えると、いろいろ調査してからじゃないと逮捕できないらしくて、
逮捕するまでに早くても1ヶ月かかるんです。

で、マリーの場合は警察に届けるまでに24時間以上かかってしまったので、
まずお父さんを逮捕するまでに時間がかかり、そこから裁判が始まります。
最初は個人的に裁判官がマリーと面談して証言を聞きだし、次に加害者と面談します。
加害者が罪を認めれば裁判はそこで終わり、彼女の勝ちになります。

でもまあ普通認めませんよね。
マリーのお父さんもレイプを否認したので、
次はマリーと加害者が同時に出席する裁判をしなければならないのです。

彼女にとって、自分をレイプした加害者がそこにいる場で、
自分の身に何が起きたか、いつ何をされたかを裁判官にきちんと説明するのはかなり難しいことです。
しかも、レイプする時ってたいてい加害者は
「これを誰かにしゃべったらお前のお母さんを殺すぞ」
などと脅してあるのです。

私はここのスタッフに、
「裁判中は彼女の証言しか認められないのですか?
誰か大人が事前に面談して、裁判で彼女とともに証言することはできないのですか?」
と質問しました。

...彼女の口から出た言葉しか証言として認められないそうです。
加害者である大人と、被害者である14歳の子の裁判...、これがあまりにも不公平で、
彼女が勝つのがかなり難しいのは一目瞭然ですよね。

ここのスタッフはとにかくマリーに、
「裁判の間はお父さんのほうを見ないようにしなさい。
お父さんは裁判の場では、たとえあなたが何を言っても、あなたに何かしたりはできないんだから、
お父さんと目を合わせないようにして、お父さんなんかそこにいないと思って話しなさい」
と教えていて、事前に何月何日に何をされたかなどを面談して、裁判の練習をしているそうです。

でも何だかんだ言って、マリーは14歳だからまだいいんです。
7歳や8歳の子でも、裁判で一人で証言しなければならないのは変わりません。
その場合、小さい子は、自分が虐待されたのが何月何日なのか、
そもそも6月って何?みたいなことになってしまうんですね。

曖昧なことを言ったり途中で証言が変わったりすると、
「子供だから作り話しをしている」と受け取られてしまいます。
この施設では、小さい子が裁判に望む場合は、
まず1月2月、月曜日火曜日...といった日にちや曜日を教えるところから始まります。
でもたとえば「6月30日にレイプされました」と言ったとしても、
裁判官は「どうしてそれが6月30日だって分かるの?6月って何?6月の前は何月?」などと
子供の証言を試すような質問をしてきて、そうなると小さい子は対処できなくなってしまいます。
だからこの施設では、「何で6月30日だって分かるの?」と聞かれたら、
「なぜならその日は親戚のおじさんの誕生日だったから」と答えなさいと教えます。
そうすれば日にちの証言として認められるそうです。


 後日談を一つ。

私たちがマリーの過去について話しを聞いたのは7月1日で、
ここでのサービス活動は7月3日までだったのですが、
7月11日日曜日、カサ-エスペランサのスタッフが女の子たち全員を連れて
近くのショッピングモールに来るという噂を聞き、
彼女たちに再び会うべく私たちもショッピングモールに出かけました。

そこへ向かう途中、スタッフの一人から
「昨日の朝、マリーのお父さんが亡くなったの」と聞きました。

 まだ裁判の判決が出ていないので、彼女をレイプしたお父さんは家にいたわけなのですが、
娘をレイプしたということが許せなかった近所の誰かに殺されたそうです。
加害者がいなくなったので、裁判を続けることはできません。
マリーの訴えは、あいまいなまま片づけられることになります。

 今から彼女にも会うという道筋、私はもはや彼女の気持ちを想像することができませんでした。
自分をレイプした加害者がいなくなったというのは、嬉しいことなのでしょうか?
それともやはり、実のお父さんが殺されたというのはショックなことなのでしょうか。

せっかく頑張ってきた裁判が曖昧なまま無かったことにされるのは、どのような気持ちなのでしょうか。
また、ある意味では、自分がこの家にいたせいでお父さんが殺されるという結果になってしまったため、
残されたお母さんも100%彼女に同情しているわけではありません。

むしろ、彼女が全ての原因だと考えています。

したがって、お父さんがいなくなった今でも、
彼女はもう2度と実家に帰ることはできず、今から里親探しが始まります。

これだけの状況の変化、これだけの背負いきれない様々な気持ち...、
それを全てたった1日で負わされた彼女の気持ちは、もはや想像がつかないのです。
それと同時に、14歳までにこれほどの経験をした彼女は、どんな大人になるのでしょうか。
一歩間違えれば、将来誰か他人の幸せを奪う存在になるのではないか、と心配なのです。

 ショッピングモールへ着き、彼女たちに会いました。
みんな元気そうで、その中にマリーがいました。
私を見かけると、「由香理姉ちゃん」と言って元気に抱きついてきました。
まるで、何事も無かったかのように見えました。


 ※写真は、ライセルとマリーです。写真に向かって左側(つまり実際には私の右側)
がライセル、写真に向かって右側がマリーです。

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フィリピン、デュマゲッティ体験談その2、悲しい三つのケース

 1週目、私たちはカサ-エスペランサという性的虐待から保護された女の子たちの施設にやってきました。
前回3月のスタディーツアーで訪れた、プレダの女の子たちの施設のようなところです。
忘れてしまった人は、フィリピン体験談その5、ブレスレット前編フィリピン体験談その5、ブレスレット後編をご覧ください。

 前回訪れたプレダはNGO団体による大きな施設で、50人以上の女の子たちが保護されていたのに対し、
今回のカサ-エスペランサは政府によって立ち上げられた施設で、政府の資金不足のため、
施設は小さく(個人の家を少し大きくしたかんじ)、保護されている女の子たちは4歳から21歳の10人です。

一見、子供たちの雰囲気は明るく社交的で、施設には楽器がたくさんあって、
みんなリコーダーやフルートを吹いたり歌ったり。

 私たちのグループはICU生(つまり日本人)ばかり3人だったのですが、
朝10時ごろに到着すると、女の子たちは手に手に楽器を持って私たちを迎えてくれました。
すぐに、仲良くなっていく私たち。
ですが、これはいつものことなのですが、みんなの中で一人だけ白い棒を持っている私に対しては、
みんな最初はどう関わっていいか分からなくて、他の二人の友達のところには女の子たちが集まってくるのですが、
私のところには誰も来ません。
この壁をどのように取り除き、どうやってみんなと仲良くなっていくかは、いつも私自身のやり方にかかっています。

 ようやく、私の近くに二人の女の子が来てくれたので、
前回のフィリピン滞在の時子供たちの注意を引くのに使った「マジックスティック!」を披露してみます。

...これはつまり、私は7段折りの白杖を持っているのですが、それを1段ずつ折っていくと、
1本の棒だったはずの杖は、あら不思議、手に収まるコンパクトサイズにまとまります。
さらに、杖の端っこを持って手を離せば、今度はパチパチっという音とともに勢いよく広がって元の1本の杖に戻ります。

これは前回ストリートチルドレンたちに大人気で、彼らは白杖を「マジックスティック」と呼びました。
手品のように見えたのでしょう。
このように、子供たちの注意を引いて仲良くなるためなら、白杖だろうが何だろうがエンターテイメントとして使ってきました。
そして今回も、このマジックスティックを機会に仲良くなろうとしたのです。
ところが、披露した後の反応は「ふううん」という微妙なもの。私は正直焦ります。

 自分の手元にリコーダーが回ってきた時、二つ目のアイディアを思いつきます。
前回3月にフィリピンを訪れた時、フィリピンでは「Nobody」という韓国の音楽が大人気でした。
去年の9月以降に韓国かフィリピンへ行った人ならこの歌を耳にしなかった人はいないと思います。
本当に、1時間ラジオを聞いていたらこの曲がかならず1回は流れるんじゃないかと思うくらい流行っていたのです。
リコーダーを手にした私は、それを使ってNobodyを吹いて見せたのでした。
みんなは、日本人がその曲を知っていることに驚くと同時に、途端に女の子たちが周りに集まってきて、
自分もリコーダーを持って真似をしようとしてみたりと、私はようやくみんなの中に溶け込むことができました。

 ※Nobodyを聞いたことが無い人のために、ユーチューブのurlを載せておきますね。
http://www.youtube.com/watch?v=qFjP-OJ7Bh4&feature=related

  みんなと昼食を食べ、井戸からポンプで水を汲んでお皿を洗ったりした後、
女の子たちとともに庭の草むしりを行いました。
ちなみにここの子たちの英語力はだいたい私レベルなので、プレダの女の子たちほど流ちょうには話せません。
草むしりの時、私の手引きをしてくれてたのがライセルという18歳の女の子。
彼女は私に「家族は何人いるの?」と聞き、私が答えた後、
「あなたは?」と聞くと、「両親とお兄ちゃんが二人。でもお母さんは私がまだ5歳の時亡くなって...」
そこから彼女の英語だとちょっと理解しにくかったのですが、
高校に入ってから、ちょっとでも成績が下がるとお父さんが自分を虐待した、
だから1年前にここに来た、みたいなことを話してくれて。
それにはどう答えていいか分からないので、
「で、今高校の学費はどうしてるの?」と聞くと、「政府からお金が出るの」と。

 さっきまでみんなといっしょに明るく笑っていた彼女が、その話しをする時だけ真剣で、
裏に何か寂しいものがあるように感じました。

 ライセルが私に自分の過去を話そうとしてくれたけれど、彼女はうまく英語で言い表せなかったので、
ちゃんとは理解できなかったと、ここのスタッフに話したところ、
「普通、ここの子たちが来たばかりのお客さんに自分の話しをすることはめったに無いのよ」と驚かれました。
何なんでしょうね、プレダで出会った女の子A.にしろ、ここで出会ったライセルにしろ、
何かお互いに同類だと感じ合ってしまうものがあって...。
何か相手の気持ちが分かる気がして...。
相手が心を開いて自分の過去を話してくれるのは嬉しい反面、
毎回そのつもり無く相手からこんな話しを聞き出してしまう自分が恐ろしくも感じます。

 翌日。朝からここの代表者に話しを聞いて、いろいろ質問できる機会がありました。
ここで保護されている女の子たちにはどのような過去があるのか、なぜここに来たのか。
今から3人のケースを紹介します。

一人目、さっきの18歳になるライセルのケースです。
彼女は5歳の時に母親を亡くし、高校に入る時、ついに家では学費を払えなくなって、
お父さんが知り合いのもう少しお金を持っている人の家に彼女を養女に出しました。
学費を出してもらう代わりに彼女が家事をする、という条件で。
彼女をレイプしたのは、その義理のお父さんなんです。
でも彼女は本当に勉強が好きで、成績も優秀で...、
なのに本当のお父さんのところに戻るなら学校に行けなくなるし、
今住んでる義理のお父さんからはレイプされるしで行く場所が無い...。
おまけに、彼女の場合、虐待された当時の証拠写真が何も無いので、
裁判を起こして加害者を訴えても、説得力に欠けるのです。
前回裁判で1度負けていて、今再度裁判を起こしている最中だそうです。
 ※続きのケースは次の体験談に書きます
(話しはどんどん重くなって行きます。でも読んで、知ってほしいのです)

 ※前回の体験談ではいちおうブログに公開するということもあって、
写真を出す代わりに彼らの本名は隠していましたが、
今回名前と写真を同時にネット公開する許可をいただいているので、
今回の体験記では、皆さんにより現実的なイメージを持っていただくため、名前付きで書いていきます。

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過去の関連記事:

フィリピン、デュマゲッティ体験談その1、サービスラーニングで再びフィリピンへを読む

フィリピン、デュマゲッティ体験談その1、サービスラーニングで再びフィリピンへ

こんにちは。毎回、海外での体験記を報告する時だけ現れる、モニタースタッフの由香理です。

私は6月28日から7月26日まで、サービスラーニングという大学のプログラムで
フィリピンのデュマゲッティに行っていました。
...またフィリピンかと思う人もいらっしゃるかもしれませんが、とにかくフィリピンは広い...、
したがって前回とはまったく雰囲気の異なった場所です。

前回は、ルソン島というフィリピンでもっともメインとなる島にいました。
そこで首都のマニラや、そこから車で4時間北に移動したオロンガポを訪れていましたが、
その辺りは基本的にフィリピンの中心部だけあって発展していて、マニラなどビルが立ち並び、
一見新宿などと変らないように見えます。
近くに海はあまりありません。
雰囲気はアメリカに近いのが特徴で、言語はタガログ語と英語です。

 今回訪れたデュマゲッティは、首都マニラから南に向かって飛行機で1時間行ったところにあり、
メインのルソン島ではなく、ネグロス島という地域に属します。
一言で言い表すならば、周囲を海に囲まれたジャングル。
とにかく海、海、海...そしてココナッツ、と言った、まさに南の島なかんじです。


デュマゲッティの隣にあるセブ島は、サーフィンやダイビングなどの観光地で有名です。
雰囲気はスペインに近く、主な言語はビザヤ語です。

 さて、上に書いたサービスラーニングとは、
「30日以上、国内外で何かしらのボランティア活動をすれば大学の授業3単位ぶんとして換算する」というプログラムです。
つまり、私はここデュマゲッティに、何かしら人の役に立つことをするためにやってきました。
上から目線で「やってあげる」の人助けをするのではなく、相手に奉仕する、同じ立場で助け合いともに学ぶ...、
これがサービスラーニングの意味であり、私が通う大学、ICUの方針でもあります。

私たち障害者はどちらかと言うといつも人からサービスをしてもらう、助けられる立場にいることが多いと思います。
でも、そんな私たちだからこそ、サービスを受ける側の気持ちが分かるからこそ、相手に気を使わせない、
本当に同等な立場でのサービス活動ができるはずだと私は考えました。
また、あえて全盲である私が日本という外国からやってきて、現地の人々のために何かしようとする...、
それだけでも彼らに新しいインパクトを与えるはずだと考えました。

途上国では、まだまだ障害者が一人で出歩くのは難しい現状があります。
段差だらけの整備されていない道路、交通ルールなど無く、信号もほとんど無いという恐ろしい車の流れ、
障害者は何もできないという決めつけ、障害者を教育できる人の不足...。

むしろ、障害を持った子供が生まれたら家に匿って、近所から隠して育てたり、
あるいは川辺などに捨てに行ったりさえされています。
1カ月外を歩いていると、周囲の人々が興味駸々な目でジロジロ私を見る、という光景にしょっちゅう出会いました。

なるほど、友達などとともに外を歩きまわって買い物などをしている障害者は私しかいなかったのです。
あるいは、途中でここデュマゲッティの盲学校を訪れる機会があったのですが、
どこへ行ってもいろんな人に「お母さんはどこにいるの?」と聞かれました。
また私といっしょにいた友達は何度も「この子のお姉ちゃん?あなたたちは姉妹なの?」と聞かれていました。
フィリピンでは、障害者が家族の付き添い無しで出歩くなどありえないのです。

 私たちは日本の大学、ICUから5人、中国の香港にあるチュンチー大学から二人、
韓国にあるソウル女子大学から二人という合計9人のメンバーを、3人ずつのグループに分けて活動していました。

グループAには環境や建築に興味がある子が多く、フィリピンの環境問題や水質問題などについて学んでいました。
私はグループBだったのですが、ここは教育に興味がある子が多く、様々な施設で子供たちと関わりながら、
フィリピンでの教育における問題などについて学びました。
グループCは社会学や福祉に興味がある子が多く、制度や法律を改善することでフィリピンをより良くできないか、
あるいは貧しい人々にどんな援助が必要かなどについて学んでいました。

 私たちは1週間ずつ異なった施設を訪れ、月曜日から金曜日までその地にホームステイなどをしながら、
施設でサービス活動を行い、土日はシリマン大学の寮で暮らしていました。

 1週目は、「カサ-エスペランサ」という性的虐待から保護された女の子たちの施設、
2週目はLCP(Little Children of Philippine)という、貧しい子供たちが大学まで卒業できるよう奨学金を与えたり、
子供のいる家族に安い値段で家を貸したりしているNGO団体、
3週目はいわゆる少年院のような刑務所から保護された子供たちのいる施設、
そして4週目は障害者学校で活動を行いました。

 デュマゲッティという地で私はどんな体験をし、またどのような形で自分なりのサービス活動を行ったのか...?
今回の体験記では1カ月間のフィリピン滞在で、とくに印象的だった事柄を幾つかピックアップして
お話ししていきたいと思います。

※写真1枚目は、デュマゲッティの海です。
2枚目は、市場に並ぶマンゴーです。

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過去の体験記はこちらから遡ってご覧ください