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3月8日木曜日。
この日はフィリピン滞在中でもっとも楽しい、しかしもっともhardな日となりました。
毎日違う折り紙を教えているのですが、今日教えたのはパペットだったんです。
教え終えた後、ダフネさんが余計なこと言うからいけないんですよ。
「じゃあみんな、パペットを使って、アテ由香理とお話ししましょう」
...とたんに6.7歳の子どもたち16人が立ち上がり、たちまち囲まれる私です。
お話しと言っても、最初は"Hello"とか「マガンダン ウマガ(Good morning)」とか言っていますが、
それ以上会話ができないので子どもたちは何をするか...、
体でぶつかってくるにきまってます。
その日からまるで彼女でも作ったかのような気分で私をリードする7歳の男の子ロバートがいたのですが
(なかなか男らしい子で私が思うに生徒の中で1番かっこいい、10年後が楽しみなかんじな子です)、
ロバートが最初にパペットを使って私の指を掴んで引っ張ったりし始めたのを合図に、
後は子どもたちに襲われてる私です。
しかもダフネさん、「じゃあ10分間自由時間ね」という恐ろしい一言。
ま、まさか私は10分間体を張るのか?
フィリピンは暑いというのと、ジプニーなどは窓が無いので風がまともに当たるという理由で
フィリピンにいる時私はたいてい髪を結んでいるのですが、
ここ2.3日の経験で子どもたちと関わる時には髪を結ばずそのままにしています。
理由は、一人でも多くの子が私に関わるチャンスを得られるように、です。
1番人数の多い6.7歳のクラスは全部で16人、
そうすると、私としては子どもたちみんなに囲まれているかのように思っていますが、
実際には直接私と触れ合っているのはほんの4.5人ほどで、
後の子たちは手が届かないわけなんです。
髪をそのまま伸ばしておくことで、ちょっと遠くからでも髪を引っ張って私を振り向かせる...などが可能になり、
関われる子の人数は8人から10人くらいにまで増えます。
これでも、その騒ぎに割って入ることのできないのこり6人くらいは、
取り巻きとして見ていることになってしまうのですが...、
それ以上は私の体力の限界なのでどうしようもない、と言うしかありません。
まあこれで、「襲われている」という状況は理解していただけるでしょ?
私は机の前の椅子に座っているので、基本的には左右か後ろからしか子どもたちは来ない...
と思っていたら、
たまあに頭のいい子が向かい側から机をよじ登って前から責めてきて、
私をぎょっとさせるのでした。
っとそんなことにぎょっとしている間に左から私のtシャツを引っ張るやつ...
「何だ何だ...じゃなくって、アノン ギナガワ モー(Whatare you doing?)」
当然、子どもたちは聞いてません。
ロバートはいちおう最年長なだけあって手加減というものを知っていて、
あまりにエスカレートしてくる子がいると怒って追い払うのでした。
いやいや、最初にやり始めたのはお前だろ、と想いながら...、
でもとにかく彼のおかげで私は子どもたちにバラバラにされずに済みました。
後で知った話しですが、そんな様子を先生方はのんびりカメラやビデオで撮影していたのでした。
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3月9日水曜日。
いつものように午前最初のクラス(6歳後半から7歳)を終え、
secondly class(3.4歳)を終え、
afternoon class(5歳と6歳前半)の時間になりました。
昨日空き地で遊んだジャナんやジャレットはこのクラスの生徒です。
授業は1時からですが12時15分を過ぎるともう子どもたちがデイケアセンターに集まり始めます。
私はその子どもたちに囲まれながら、折り紙で鶴や朝顔・ボートなど、
子どもたちが自分では作れない物を折っては一人一人に渡したりしていました。
ちなみに、私とダフネさんは教室となっているこのデイケアセンターで生活しているため、
朝は6時前には起きて7時までには準備を整えなければなりませんし
(授業は7時半からですが7時ごろから生徒が集まり始めるため)、
お昼も12時にsecondlyclassが終わり、急いでお昼ご飯を食べ始めても
途中でafternoon classの生徒が現れるっというかんじで、
さらにマラボン滞在三日目になってくると子どもたちも私たちがここに住んでいるのを知っているので、
夕方も突然ひょっこり遊びに来たりするので、
朝7時ごろから夕方7時を過ぎるまでは、教育者としての仮面を外すことはできないですし
あまり気を抜いた態度も見せていられません。
だから毎日どこかで子どもたちの目を気にし、
何もしてないのに1日の終わりには気疲れでヘトヘト...ということになるのです。
授業の初めには決まってみんなでまずフィリピンの国家を歌い、
お祈りをした後exerciseと呼ばれる体を動かしながら子供向けの歌をいくつか歌い、
それから授業が始まります。
いつもなら私はそこまでは座って見ているだけなのですが、
このクラスには昨日いっしょに遊んだジャレットとジャナンがいるため、
exerciseの途中でいきなり左右から手を引っ張られ、
立っていっしょに参加しろとばかりに二人に連行される私です。
「え?私もやるの?」と、
焦った私は5歳の子におもいっきり日本語で聞いてましたから
(まあ英語で聞いたところで通じないのは同じですが)。
放課後もジャナンはいつまでたっても家に帰ろうとはせず、
私の手を握ったまま座っていて、先生方に
「ジャナン、アテ 由香理にboyfriendがいたらどうするの?
あなたboyfriendから由香理を取ったんじゃないの?」
と笑われていて...、
しかし彼女はそんな声はまったく気にせずに、
扇風機の風で私の髪の毛が1本でも乱れる度に丁寧に直してくれるのでした。
水曜日の夜、いつものようにダフネさんにタガログ語の単語を聞いて覚えます。
三日目ともなるとずいぶん語数が増えてきて、
"What is it?"
"What are you doing?"
"What do you mean?"
など私が状況を知るための言葉を覚え始めます。
さらに、色の名前やmanyなどの形容詞も増えてきます。
その後、ダフネさんにこのデイケアセンターに来る子どもたちはお金を払っているのか
(入学金が200ペソ[400円ですが彼らの価値観で言うと4000円くらい]そして授業料と給食費で月150ペソ)、
このスラムの人々の収入は幾らくらいなのか
(月4000から6000ペソ[レストランで1食食べると100ペソくらい)、
...などなどコミュニティ三日目にして状況が分かり始めて出てきた疑問をぶつけていました。
説明するまでも無いとは思うのですが、
たとえば月給4000ペソで家族5人いたとしたら、
彼らは1日120ペソ(240円)ほどで暮らすことになり、
どんなに切り詰めても家族5人の食べ物で1日100ペソはかかってしまうので、
そうなると残るのは1日あたりたったの20ペソ。
1カ月ぶん貯めたとしても家賃すら払えるかどうか怪しい状態ですから、
子どもの授業料なんてどこをどう探しても出すお金は無い...となってしまうわけなんです。
私は今回フィリピンのスラムの人々とまったく同じ生活をするんだと覚悟を決めて来たことは以前書きましたが、
それ以外にも今回はいろいろと勉強してから来ていました。
去年のスタツアの時、KPACIOのスタッフの一人であるジャックさんが、
「日本人は、日本軍が第2次世界大戦の時フィリピンで何をしたかを知っておかなければならない」
と言っていたのを覚えていたので、日本の歴史教科書には載ってない、それをなんとかして学ぼうとしました。
インターネットで探しまくって、『日本軍はフィリピンで何をしたのか』という本を見つけました。
渡航までに読み終えることができず、ここマラボンに来てからも毎晩私は本を読んでいました。
「由香理はいつも何を読んでるの?」とダフネさんに聞かれ、上に書いたようなことを伝えます。
とにかく...、タガログ語を覚えるだけじゃなくて、フィリピンに本気なんです。
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昨日は午後のクラスでしか紙飛行機を教えていないので、
午前中のクラスでは昨日の午後と同じことをし、午後のクラスでは鶏の折り方を教えます。
授業の後、私はコミュニティの中を歩きたいと申し出ました。
理由は二つあります。
一つはこのままでは私はこのデイケアセンターの中だけで五日間を過ごしてしまう、
自分がどんなコミュニティに来たのかも知らずに...、ということに不安を覚えたことです。
二つ目は、あえて見せ物になるためです。
本当ならば全員とゆっくり時間をかけて関わり、話しができれば1番いいのですが、
それが難しい場合、ただ見せ物として私を見てもらうだけでも、彼らにとって何か新しいものがあるはずです。
視覚障害者が一人で外国からやって来た、
どうやらデイケアセンターで子どもたちに折り紙を教えているらしい...、
その噂が広がるだけでも彼らにとって新しい世界だと思うのです。
コミュニティを歩き回った後、近くの空き地にやって来ました。
ここの近くには、デイケアセンターに来ている生徒の一人、
ジャレットという6歳の男の子の家があります。
ジャレットは弟とともに空き地で遊んでいました。
私を見ると寄ってきて、何か言います、でも私には分かりません(タガログ語なので)。
後にジャナンという、この子も生徒の一人である5歳の女の子がやって来て加わります。
私にはダフネさんと、アテ ルース・アテ シェリンが同行してくれていたのですが、
私たちは空き地のベンチに座って、子どもたちが走り回るのを見ていました。
ジャナンはどういうわけか、しょっちゅう私の隣にやって来てはピッタリくっついて座ります。
"Hellow"とお互いに挨拶し、
「アノン パガラン モー?(名前は何?)」
「ジャナン」
「ジャナン?イランタオンカナ(何歳なの?)」
「five years old
(たいていfiveとだけ答える子が普通なので、この年でyears oldの英語を知ってる子は珍しい、
そうとう頭がいいことを意味しています)」
が、悲しいことに私たちが会話できるのはここまで。
理由はもちろん、私がタガログ語を話せないせいです。
にもかかわらず、彼女はそんな言葉も通じない、
ジェスチャーも表情も見えない私の隣から立ち上がろうとはしないのです。
たまに立ち上がってちょっと他の二人に加わってその辺を走り回り、
そしてまたすぐ私の隣に戻ってきて座っては"Hello"と言うのでした。
どうやらこの子は私を好きでいてくれるらしい、ということは言葉が通じないながらも理解します。
終いには手を繋いで座っている私たちです。
さてさて、6歳になるジャレットですが、これがお調子者な男の子で、
お客さんがいるとなると張り切って、年下の二人をひきつれてみんなの前でダンスを披露したり、歌を披露したり。
クラスで最初にやるaction songの時も、先生からちょっとおだてられれば教室の前に出て、
みんなの前で大得意に式を撮るようなタイプの子です。
そんなジャレットが、「アテ由香理もこっちで僕たちといっしょに遊ぼうよ」と言って、
ジャナンと二人でそれぞれ手を引っ張って空き地の真ん中に私を連れて行き...。
先生方とジャレットのお婆ちゃん
(スラムでは20歳くらいで子どもを生み始めるのでお婆ちゃんとは言っても50歳になるかならないか歳くらい)は
にこやかに見ています。
子どもたちの輪に入れてもらえたこと、それはこのコミュニティに入れてもらえることの始まりでした。
子どもたちの様子を見て、お婆ちゃんの壁が取れたらしく、
彼女は家からコーラとクッキーを持ってきて、私たちに出してくれます。
このクッキーが砂糖をまぶしたようなやつでどう気を付けて食べても粉がパラパラ落ちる困りものなのですが、
私のズボンに粉が落ちる度、すかさずジャナンが丁寧に丁寧にそれを払い落してくれるのでした。
そして、私が一袋(2枚入り)のクッキーを食べ終えた時、
ジャナンは自分のクッキーを割って、欠片を私にくれたのです。
まず夢の無いことから書いてしまえば、正直この欠片はけっしてきれいではありません。
毎日外で遊び、手を洗うことなどしない子どもたち、さっきまでどこで何を触っていたことやら...。
もちろん私は「サラマ(ありがとう)」と言って、躊躇いもせずその優しさのかけらを口に入れます。
フィリピンにいる時、私は子どもたちからもらった食べ物は何でも目の前で食べることにしています。
万が一お腹を壊したら、それはその時です。
言葉を理解しない私へのジャナンの愛情表現、
それはズボンに落ちた粉を丁寧に払い落すことと、自分のクッキーを分けることと、
風で私の髪の毛がちょっと乱れる度に丁寧に直してくれることでした。
あまりにも彼女が私にベッタリなので、
「ジャナン、あなたアテ由香理といっしょに日本に行くの?」とダフネさん。
彼女はその気になったらしく、小さな木のベンチに馬のように跨って、日本に行くと言うのです。
いったい...日本がどこにあると思っているのでしょうか。
ジャレットは木に登っていました。木の上から、「アテ由香理ー」っと呼んで、何かを聞いてきました。
"What did he say?"あわててダフネさんに通訳を求める私です。
「明日は折り紙で何をやるの?」と彼は聞いたらしいのです。
この時、子どもたちが毎日の折り紙を楽しみにしてくれていることを知りました。
なにしろ言葉が通じないうえに表情が見えないので、自分がやっていることは受け入れられているのかこれまで不安でした。
折り紙をやっている最中に立ちあがって歩き回ったりしている子たちもいるので、つまらないのかな、と。
翌日から、自信を持って子どもたちと関わるようになっていく、そのチャンスをくれたのはジャレットとジャナンでした。
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その日は子どもたちに紙飛行機の折り方をまず教えました。
これも事前にダフネさんや先生方とどういう順序で授業を進めるか打ち合わせてあって、
まず私が自己紹介をし、
「私は日本から、飛行機に乗ってフィリピンへやってきました。
今日はみんなで、私が乗ってきた、その飛行機を作りましょう」
という流れで紙飛行機作りに移行し、
折り終わって少し飛ばして遊んだ後はダフネさんや先生方にバトンタッチし、
「飛行機からはどんな物が見えますか?雲もあるね、太陽もあるね、家もあるね、人もいるね」
などと子どもたちから意見を出させ、
「では、紙飛行機を紙の真ん中に張り付けて、
その周りに飛行機から見える物を描いてみましょう」
という流れに続けます。
絵が出来上がったら順番にそれを持って私とダフネさんの前に来て、
名前と年を言った後、何を書いたか説明する...というのが、子どもたちの今日の授業です。
子どもたちとダフネさんの会話を通して、
「What is your name?が『アノン パガラン モー』」であること、
「How old are you?が『イランタオンカナ』」であること、
その他houseはバハイ、treeはプノ、太陽はアラオ、
また「家と木と...」と言うときの「と」は『サカ』だということなどを覚えます。
絵を描いた後は、新聞紙で紙鉄砲の作り方を教え(これは音が出るので子どもたちに人気なんです)、
school feedingと言ってめいめい持ってきたお皿に食事をあげて、一つのクラスがおしまいです。
子どもたちの中には1日3食食べられない、
食べられたとしても非常に栄養の偏った食事しかできない
(母親が栄養バランスを考えるという教育を受けていない)子が多いので、
せめて1日1食でも学校に来た時くらいは体にいい食事を...というプログラムです。
クラスが終わった後、明日も紙鉄砲をやるということで、
新聞紙を4分の1に切ったサイズの物(子どもたちには普通の新聞紙では大きすぎる)が48枚必要だとか。
ダフネさんがそれを作り始めたので、「ダフネさん、私、やりますよ」と引き受けて、
とりあえずあえて下働き的なことがしたい私です。
火曜日。
「由香理、クラスは7時半からだけど7時ごろから子どもたちが来始めるからそろそろ起きなさい」
と呼ばれてあわててとび起きます。
私たちはデイケアセンターで寝泊まりしているのです。
夜は、教室のコンクリートの床に御座みたいなのを敷き、
その上にシーツを敷いた上に寝ているという、非常に堅い寝床です。
初日は慣れない堅さにしょっちゅう目が覚めてあまり寝ていなかったので、
6時半前に起こされた時にはまったく眠れた気がしていなかった私です。
あわててご飯を済ませ、あと10分あるからシャワーを浴びていいと言われ。
ちなみにここのバスルーム、教室からカーテン1枚で区切られただけで、ドアも何もありません。
日本でいうスーパーのお手洗いの個室くらいの広さのところに、
便器とバケツだけが置かれた、非常に狭いスペースです。
まあ、スラムではこれがあたりまえ、ゴキブリが下にウジャウジャしていないだけましなんです。
去年初めてこんなバスルームに入れられた時は、
すぐそこ、カーテンの向う側には家族団欒があってお父さんもいるという雰囲気で、
今から服を脱ぐことにまず10秒躊躇し、
そしてこの狭くてきたないスペースでいったいどこをどうきれいにしろと言うのかと、日本に帰りたいと思った瞬間でしたが、
今回、フィリピン3回目ともなれば、このバスルームでどうどうと髪の毛まで洗っている私です。
お気づきのとおり、日曜日にシャワーを浴びたっきり、昨日月曜日はお風呂に入れていません。
部屋が一つしか無いので着替えることもできていません。
シャワーはよくて二日に1回、現地民なら週に2回くらいしか浴びれないですし、
洋服も三日に1回くらいしか着変えられない、それが普通です。
お風呂に入る水も、洗濯する水も、この季節は貴重なのです。
気温は30度を超えているとは言いながらも。
バスルームから出る時、あまり時間が無いのでちょっと急いでカーテンをくぐろうとしたら、
上の棒ごとカーテンを外してしまい...。
「あ、ご、ごめんなさい」と焦る私に、
周囲の先生方は爆笑!
「だいじょうぶだいじょうぶ、朝からジョークをありがと」。
これをきっかけに、周囲からからかわれたり気軽に遊びのねたに使われるという
私のここでのキャラが確立していきます。
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今回の滞在の1番の目的は、お客様扱いされないこと、
現地の人々と同じ生活を送ること、学習させてもらう身として謙虚にいること、でした。
1回目にFTCJのスタツアでここに来た時は初めての途上国で馴染めない部分もあり、
スラムにホームステイした日はゴキブリだらけのバスルームで
水を浴びることがどうしてもできず体だけ拭いて終わらせたり、
木の板にシーツを敷いただけの堅いベッドでほとんど眠れなかったりしました。
2回目のサービスラーニングの時、まるで観光旅行に来たかのような
周囲の友達たちに私は絶えずイライラしていました。
貧しい村に行くというのに毎日ばっちりメイクをする子、
土日の度に飲みに行く子、
フィリピン料理では無く、現地民から見れば高級レストランにばかり行くみんな、
子どもたちと関わることより写真を撮ることに夢中になるみんな、
買い物に行っては1000ペソ(2000円ですが貧しい人々の10日ぶんくらいの収入)などを平気で使い果たしてくるみんな...、
いったい何しに来てるんだ、なぜ現地民に馴染もうとしないんだと常に不満に感じていました。
だからこそ、私は今回それを実行すべくあえて一人で来たのです。
そして会えて長く滞在するように予定を組んだのです(飛行機の関係上2週間以上滞在できませんでしたが)。
私たちは日本人だという、ただそれだけでどうしても敬われてしまいます。
その壁をどこまで壊せるか、そして私の気持ちをどこまで分かってもらえるかが今回の課題でした。
だからあえて非常食のお菓子とか何も持たずに行きましたし、
洋服も3枚くらい、1番使い古した物を持っていましたし、
化粧道具などそもそも持って行っていません。
また、これまでは英語で通してきましたが、子どもたちと本当に関わるにはタガログ語が必要ですし、
ある意味では「私は本当にみんなの一員になれるよう努力したいんです」というメッセージを
周囲の大人たちに1番手っ取り早く分かってもらう方法は、毎日タガログ語を学ぶ様子を見せることでした。
したがって、毎日クラスが終わって夕方になると、ブレイルメモを前にダフネさんに、
「Come Hereってタガログ語で何て言うんですか?」
「I'm from Japanって何て言うんですか?」などと1日10こずつくらい聞いてはメモし、
その後30分くらいまるで受験生のように真剣に覚え
(周囲がその時間は話しかけてはいけないと思っていたほど)、
翌日には丸暗記したその新しいフレーズを使い、周囲の先生方やダフネさんに「ものすごい暗記力ね」と驚かれていました。
みんなは1日2日で終わるかと最初思っていたようですが、
4日目の木曜日になってもいつものようにタガログ語を聞いて復習している...、
そのころには周囲の先生方は十分私の気持ちは分かってくださっていたみたいですし、
ダフネさんには、
「そろそろ覚える量が多くて難しくなってきたんじゃない?何も急ぐこと無いんだから、ゆっくりでいいのよ」と言われました。
ここでの先生は主に3人。
52歳のアテ ルース(アテはolder sisterと言う意味で、女性につける継承です、男性だとクヤになります)、
40代のアテ マリン、
そして2週間前から入ったばかりの26歳のアテ シェリン。
3人の中ではアテ ルースが1番英語がうまく、私レベルでしょうか?
アテ マリンはlisteningはできているようですがspeakingの文法のグチャグチャ具合は私よりひどいです。
"Where are y ou going?"と言う意味で、
"Where did you go?"と聞いてくれますから。
アテ シェリンが1番英語ができなくて、
私が言っていることもどこまで理解しているかはちょっと微妙なところがありますし、
本人も自信が無いので英語ではめったにしゃべりません。
いちおう、英語はフィリピンの共通語の一つで、
駐留階級以上の人ならば英語を使いこなせるのは普通ですが、
スラムに行けば先生という名の人でもこの程度なのが現状です。
NGOの支援が入ったからこそ子どもたちは文字を覚え学校に通えますが、
お母さんたちの多くが小学校すら卒業しておらず、
金曜日に保護者の前で話しをした時には、とりあえず私の話しは皆さん理解してくれるようなのですが、
みんなからの質問はほとんどがタガログ語で、ダフネさんの通訳を必要としました。
あたりまえですが、コミュニティの彼らが全盲の視覚障害者のボランティアを見たのは初めてです。
最初アテ マリンは
「私たちも人のためになる仕事をしているけど、でも私たちは健常者だから。あなたは視覚障害者にもかかわらず...」
と言って涙を浮かべたのでした。
このような彼女たちのイメージを五日間でどう変えられるか、
私の課題がまた一つ増えます。
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3月7日月曜日、朝食を済ませてダフネさんとマラボンに向けて出発します。
スタッフハウスからサイドカー(自転車の横に二人乗れる座席が付いた人力タクシー)で駅へ行き、
初めて電車に乗ります。
フィリピンの電車は、
女性占領車両と
男性占領車両と
special needs(障害者)占領車両(小さな子連れやお年寄りもOK)
に分かれているんだとダフネさんが教えてくれます。
「じゃあ、カップルで来たらどうするんですか?男女に分かれて乗らなければならないのですか?」
「カップルの場合は、女性のほうが男性車両に乗るのよ」とダフネさん。
ちなみに私たちは、そっちのほうが空いているからとspecial needs車両に乗っていたのですが、
その車両が止まる位置のところにはたいていの駅ではちゃんと駅員さんが待ち構えていて、
乗り降りにヘルプが必要な人がいれば手を貸す体制になっているという、
意外と日本よりちゃんとしてるんじゃないかと思われるサポート体制が印象的でした。
電車の中でダフネさんに、
「あの、私、タガログ語を覚えなきゃいけないと思うんです。
だって幼稚園の子たちにはまったく英語が通じないでしょ?
私に自己紹介のしかたを教えていただけませんか?」
とここからタガログ語レッスンが始まります。
Myname is Yukariを、「アコ スィ 由香理」と言うことを学びます。
タガログ語でIやmeを表すのが「アコ」、youを表すのが「イカオ」です。
モニュメントの駅からジプニー(バスのドアも窓も無いようなやつ)を
2回乗りついでマラボンのコミュニティに到着です。
マラボンでは三つのクラスが行われます。
朝7時半から9時半は、6歳から7歳のクラス(修学直前)、
10時から12時は3歳4歳児のクラス、
そして午後1時半から3時半は5歳と6歳前半の子たちのクラスです。
私たちが辿りついたのは10時半ごろ、3.4歳児のクラスの最中です。
その後昼食。
フィリピンでは、平たいお皿の上にご飯がやく半分、
そして味の濃い野菜炒めやチキンや魚が添えられ、
それをスプーンとフォークで食べるのが普通です。
「今日のメニューは魚。ピラピアよ」とダフネさんに言われ、
何だそれは?ピラニアじゃないよね...、
どんな物が出てきたって現地民と同じ物を食べるんだと覚悟して来た私ですが、
ピラニアは勘弁ですよ?
「ピラピア?(ピラニアと同じアクセント)」と聞き返すと、
「違う、ピラピアよ(ラのところにアクセントを置く)」と言い直され、
...何が違うの?
ちなみに、ピラピアは鮭のムニエルに似た味がしました。
食事中、「由香理、両手貸して、これがピラピアよ」と、
まるまる1匹の焼き魚を手に持たせてくれたのですが、
なるほど、ピラニアではない、長さ20から25センチくらいの、鯵に似た大人しそうな魚でした。
そもそも...本当ならば魚介類はあまり好きではない、
自分から買ってはけっして食べない私です。
が、フィリピンに来たとたん何かが変わる、
と言うより、生きていくためには何だって食べなければならない状況に置かれると言うか...。
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