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フィリピン、KPACIO体験談その17、皆さんぜひ心に止めて置いてほしいのです

3月17日木曜日、朝のforumを終えた後、トンドの皆さんにお別れして、私たちはマラテに帰ります。

ハリエットさんの家で少し休んだ後(本人はオフィスに行っていて、いない)、
ダフネさんとともに近くにあるKPACIOのオフィスへ向かいます。
私がオフィスへ来るのは初めてです。

 

 中にいたのはハリエットさんだけ、あれ?ジャックさんは?っと口には出さないもののそう思っている私です。

っというのも、私にとってジャックさんはすごくレアキャラで、
以前FTCJのスタツアで来た時も、ハリエットさんとダフネさんは私たちと三日間活動をともにしましたが、
ジャックさんは三日目のreflectionに現れただけでしたし、
今回も最初に空港に迎えに来てくれた時以来、私はジャックさんに会っていません。


彼は58歳と言いますが、正直10歳くらい上に見えて、自分の考えをしっかりもった、
昔堅気な頑固なお爺ちゃんっと言ったかんじなのですが、私はこの人が好きです
(KPACIOのスタッフみんなそれぞれ好きですが)。

 

 少しして、ジャックさんがおいしそうな食べ物を買って帰ってきました。

"Jack-san!! I wanted to see you!(ジャックさーーーん、会いたかったですよおお)"
と言う私のそれには、ハートマークが三つくらい付いてそうな発音です。

ジャックさん1歩引いて思わず苦笑い、ハリエットさん爆笑!

ルンピアと言って、餃子みたいな食べ物(ただしかけるソースが甘い)と、
名前を忘れてしまったのですが、小麦粉とチーズとポテトを混ぜて焼いた小さなパンみたいなのと、
バナナをお昼ごはんにいただきます。

 

 ジャックさんが机を挟んで向かい側に座り、
ダフネさんとハリエットさんは少し離れた洗面所の辺りで立ち話をしています。

必然的に、私はジャックさんと会話することになります。
私はジャックさんをすごく尊敬していて(政治や経済など多方面にものすごく詳しいので、
ここに来た時彼に話しを合わせたいと思って事前に大学で「国際関係学概論」を受講していたくらい)、
そのチャンスがようやく来たわけなのですが、同時に彼は時間を守ることや礼儀にものすごくこだわる、
そして自分の意見を強く持っている人なので、話しをするにも言葉を選びながら慎重に...ということになります。

 

「この2週間はどうだった?」「いい経験になりました」「どんな経験をしたの?」などと話していて。

まあcritical(批判的)に一つ言ってしまうならば、ジャックさんは日本人に理想を持ち過ぎていますね。

息子さんが日本人女性と結婚して東京に住んでいるので、
日本を知らずに言っているわけではないとは思うのですが。

 

「僕は日本人を尊敬する(admireを使っていました)。

だってあんなひどい地震と災害が起きた後でも、彼らは落ち着いていた。
大人しく礼儀正しく、配給が配られるのを列になって待っていた。
怒鳴ったり、取りあったりする人なんていなかった。

オンドイ(1年半前の9月にマニラを直撃した台風)の後、フィリピン人たちはみな我先に配給品を取ろうと争った。
列なんて作ろうとせず、みんなが怒鳴り合っていた。
すでに配給品をもらった人でさえなおも取ろうとしていた。

それに、日本では災害で避難して空き家がたくさん出ているというのに、盗みなどの事件をまったく聞かない」

 

と、だから日本人はすごいんだ、だからフィリピン人はだめなんだ、みたいなことを延々と語るのです。

 

私は、ジャックさんとはまったく反対の考え方を持っています。

ここに来る前に読んでいた本の中に、

『私がお昼時にインタビューで家を訪ねると、人々は昼飯は済んだかと聞く、
まだだと答えると食べていけと言う。

日本で、突然お昼時に訪ねてきた外国人に昼食を御馳走したりするでしょうか』

という文がありました。

 

また、『なんとこの村では95%の人が失業していると言うのです。
日本やアメリカならばとっくに暴動が起きているでしょう。
それなのに、フィリピン人たちはよく我慢しているなあと思います。
確かにマニラなどで度々犯罪が起きますが、この失業率からしてみれば少ないほうではないでしょうか。
この状況が日本ならば、きっともっとたくさんの犯罪が起きているはずです』

という文があり、なるほどなあと思いました。

 

日本人はこれ、フィリピン人はこれと決めつけることはできませんし、
べつに日本を悪く言いたいわけでも無いのですが、
基本的にフィリピン人のほうが優しいですし、少なくとも余所者や他人に優しい、と私は思います。

なので私は思わず、

「そうですか?
それは、日本人たちは、待っていれば確実に配給がもらえると分かっていたから大人しく並んでいただけですよ。
もし配給品が十分ではなくて、自分はもらえないかもしれないと思ったら、彼らだって我先に争ったと思いますよ」
と反論しました。

 

するとジャックさんは上に書いた自分の意見をさらに事例を加えながら繰り返し、私を説得にかかります

。「でも、フィリピン人の多くはキリスト教徒でしょ?
キリスト教徒は隣人を愛する(他人を思いやる)のではないのですか?」

と言うと、

「いや、確かにフィリピン人の多くがキリスト教徒だけど、彼らは生まれてすぐ洗礼を受けているから、
実際にはキリスト教の考え方をちゃんと理解した人なんてほとんどいない。見た目だけだよ」

とジャックさん。

 

そこまでフィリピン人をさげすむか?
どうやらこの人には反論しないべき、と悟ったので、後はいろいろ思うことはありながらもうなづいてました。

 

 ここで皆さんにも考えていただきたいことがあります。

「日本人はフィリピン人の優しさを見習うべき」という私の考え方はさておき、
ジャックさんを初めKPACIOの皆さんは日本人を尊敬していると言います。

災害が起きた時他人を思いやる行動、列になって配給を待つ礼儀正しさ、弱い者から盗まない常識、
今回の大地震ではそれらの日本人の良さが表れていたと彼らは言います。

私たち日本人を、他国の人々がそうやって評価してくれているのです。

彼らの尊敬を裏切らないよう、日々の行動には気を付けたいものですね。

 

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翌日、朝から慣れない洗濯(中流家庭のハリエットさんの家でも洗濯機など無いので桶で手洗い)をする私です。

ちなみに、なるべく荷物を減らすため、私は最低限の服しか持って来なかったのですが、
今フィリピンは乾季で水不足、洗たくは1週間に1回しかできないという、待っていたのはまさかな現実、
だから1週間を4種類の下着と2枚のtシャツ、1本のズボンで過ごすはめになってしまっていた私です。

 慣れないままようやく最初の桶の洗濯物を終えたところで、朝ごはんだよと呼ばれ、
そのまま久しぶりにきれいなバスルームでシャワーを浴びます。

終わって出てきたら、ハリエットさんが、残っていたもう一つの桶の洗濯物をやってくれていて...
(私の手つきがあまりに慣れてないからか?)。

 

「あ、やってくださったんですか?すみません、ありがとうございます」と言うと、

「あ、うん、それ以外何もすること無かったから」という風に、
「やってあげたよ」とは言わないところがフィリピン人です。

どことなく、日本人に似ている気がしませんか?

 

3月14日の月曜日から木曜日まではトンドにあるスラムへ向かいました(またダフネさんといっしょです)。

ここでは、お話しするようなことはとくにありません。

なぜなら、もうデイケアセンターでは学期が終了していて通常授業は無く、
卒業式に向けての歌とダンスの練習だけになっていて、その練習時間の1時間をもらって、
毎日折り紙を教えたり、story tellingをしたりしていただけで、私の役目はその午前午後それぞれ1時間だけでした。

 

しかも、ここはとにかく人数が多く、それぞれのクラスが35人くらいの子どもがいるので、
全員に大人しく座っていてもらうことなど不可能で、
月曜日火曜日は折り紙をやったのですが、折り紙を教えるには人数が多すぎて、
急きょ予定を変更して、水曜日はゲーム(猛獣狩りや爆弾ゲーム)をやりました。

 

ついでにこの三日間はちょっと体調を崩し、
ソルドアイ(フィリピンで水が汚いことから感染する結膜炎みたいなもの)かと思われる眼やにが止まらない症状と、
午後になると襲ってくる片頭痛に悩まされていました。

 

もう一つ私のテンションを下げる原因が、このデイケアセンターで働いている先生方やお母さんたちは、
学歴的にはマラボンの人々より高く(トンドのほうがマラボンよりほんのちょっと裕福)
高校まで卒業できているお母さんも多いので英語はそれなりにできるくせに、
マラボンの人々ほど英語を使おうとはしてくれず、明日私が子どもたち相手に何をするか、
という話し合いが行われているというのにみんなタガログ語だけで相談して、私には結論だけが伝えられるという、
そして結論を言い渡した後で"Any question?(何か質問ある?)"とだけ聞かれるという、

何だよ、もう決めたんでしょ?
結論だけ聞かされて話し合いの過程を理解してないのに質問も何もできるわけないでしょ、

とどうしても思ってしまい、やる気はどんどん失せていくという。


もう一つ、マラボンでもやったように、外に出てコミュニティを歩いて
周囲の人々と仲良くなることを望んでいた私だったのですが、
トンドは治安が悪く、スリが多いから危ないから外には出てはいけないと言われ、
ほとんどずっとデイケアセンターに閉じ込められていて。

 

だから、フィリピン2週目で生活にも先週より慣れたはずですし、
タガログ語も先週よりうまくなっているはずなのに、ここではとくには楽しい思い出は無く、
仲良くなった人もべつにいなくて、子どもたちの名前なんて誰も覚えてないんです。

 

唯一トンドでよかったことは、ここだけ携帯の電波がいいみたいで、
日本の人たちとメールの遣り取りができたこと...くらいでしょうか
(フィリピンに来てからはずっと電波が悪く、電話は繋がるのですが
iモードセンターにめったに接続できなくてメールの送受信がほとんどできずにいました)。

 

トンドでも木曜日の朝、保護者に向けてのforumをやりました。

前回とほぼ同じことを話し、質問タイムになります。
でも、「日本の地震の状況はどうなの?」など辺り触りの無い質問だけが出て
(しかも私に日本の状況聞かれても、むしろニュースはタガログ語でtsunamiくらいしか理解できてない私なのですから、
私のほうが教えてほしい)、

"Can I ask personal question?(個人的な質問をしてもいいですか?)"と聞いた人がいたわりには、
personalなquestionは一つも出ませんでした。

 

 一つ発見と言えば、フィリピンではタガログ語バージョンのドラえもんを放送していることを知りました。
毎朝、8時半から9時までの30分間はドラえもんをやってるんです。

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 ナボタスから真っすぐハリエットさんの家(マラテ)に帰るものだと私は思っていたのですが、
帰りのジプニーの中でダフネさんに、

「今日の夕食は、ハリエットさんの友達が経営しているレストランで食べるから。
ハリエットさんとはそこで待ち合わせてるから」

と告げられます。

経営者は日本人らしいです。

ジプニーを下りて電車に乗り、タクシーに乗り、
「ビーナスジュピター」というレストランに到着します。

 

なんとも...高級な雰囲気...。

 

ちなみに、スラム帰りのその日の私のかっこうは、
中学2年の時から8年間着ている襟首の伸びきったtシャツと、
小学校5年の時以来履いている長ズボン
  (しかも途中で丈上げしていた裾を下ろしたりしていて裾だけ微妙に色が違う)、
2000円で買って高3の時から毎年履いているのでもうボロボロになり、
しかも今日湿地帯を歩いたせいで泥だらけになった靴を身につけ、
100円金一で買ったシュシュで髪を結び、
マラボンでジャレットのお婆ちゃんからいただいた櫛を前髪に刺している...

という、日本のレストランならドレスコードでたちまちひっかかりそうな、
この日初めてフィリピン人のサイドカーのドライバーに
「この子もフィリピン人かい?」と聞かれたような実なりをしていました。

{なんで小学校の時買った服がまだ着れているのかって?
中1を最後に大きくなっていないという悲しい現実のせいに決まってるじゃないですか。
親孝行な娘でしょ?}

 これまで1週間スラムで過ごしてきた私は、
落ち着いた高級な雰囲気のレストランの椅子で非常にuncomfortable(居心地が悪い、落ち着かない)なのです。

 

それまで公園で遊んでた小学生が突然連れ出されて、
ホテルの最上階のレストランに連れてこられた、そんな気分なのです。

 

いいえuncomfortableの理由のもう一つは、
今この店にいるお客さんが、私とダフネさん二人だけだ、という現状です。

 

後にハリエットさんがやってきて、私たちは注文します。

どうやら、日本料理の店です。

なぜフィリピンにまで来て、ちょっと怪しい日本料理を食べなければならないのか...
最初あまり理解できなかったのですが、
ここはNGOのスタッフたちが経営しているレストランらしくて、
売上の一部がスラムの子どもたちの教育費に変わるのだとか。

 料理も終わりにかかったころ、

"Harriet! Thank you for comming!(ハリエットじゃない、来てくれてありがとう)"

という声とともに女の人登場。

ハリエットさんは手早くダフネさんと私を紹介します。

"Is she Japanese? Japanese?"

と慎重に確認するその人。

 

それもそのはず、普通の日本人、たぶんこのかっこうでは現れないですよね。

スラムにいる時はみんなに馴染んで壁を無くすのに有効な服装ですが、
日本人に会うとなるとちょっと恥ずかしい。

私が日本人だと分かると、

「初めまして、中村と申します」

と突然日本語になるその人。

お互いに自己紹介だけちょっと日本語で話した後、

私が"We were talking about ..."
とハリエットさんとダフネさんに、大まかな内容を伝えます
(自分が周囲がタガログ語しか話さない中で寂しい想いをよくしているので、
日本語で話した後私はかならず内容をフィリピン人にも伝えます)。

 

そこから後は、全員で話しをシェアできるように4人の言語は英語です。

中村さんはこのレストランの経営のことやスタッフのことなど、いろいろ話してくれました。

最後にはサービスでデザートが出て。
そのまま帰りはタクシーで帰宅という、これまで1週間スラムで過ごした私にはもったいないようなリッチな時間でした。

 

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フィリピン、KPACIO体験談その14、ナボタスのスラムへ


 3月12日土曜日。

 午前中だけ休みで、午後からダフネさんとともにナボタスにあるスラム地域に出かけます。

ここは川の近くの湿地帯で、スラムは全体的に地面が湿っていて、
コミュニティの中では道の真ん中を縦断するように溝が彫られていたり、
あちこちに水たまりがあったりと、私にとっては限りなく歩きにくいスラムでした。

 

しかも...今日は1日しか来ないからいいですが、
ここってきっとゴキブリの宝庫、ステイしたい場所ではありません。

 

今日相手にするのは主に小学生と高校生です。
(フィリピンには中学校は無く、小学校6年間の後は高校4年間の10年教育で、義務教育は小学校だけです)。

 


 アテ ルーシーというお母さんの家に通され、
そこに時間が来ると子どもたちが集まってくると言います。

最初はその家の息子さん(10歳くらいでしょうか)とその友達数人だけがいました。

フィリピン人はとてもfriendlyですが、見ず知らずの人にいきなり話しかけてくるほど強引ではありません。

とくに、あまりお客さんに慣れていないスラムに行った時は、
最初は寄ってきてくれないのが普通です(興味駸々に見てはいるらしいですが)。

 

そんな子どもたちと仲良くなるのに効果的なのが折り紙です。

おもむろに折り紙を取りだして折り始める私です。

折り紙で子どもたちを集めるのには順番があります。

まずは朝顔など時間をかけずにできる物を一つ折って、1番近くにいる子に渡します。
これで、子どもたちはこっちを見始めているはずなんです。

その視線を感じながら、次は鶴など少し時間がかかる物を作って、また近くの子に渡します。
 鶴はけっこう見応えがあるので、子どもたちはかなり興味を持っているはずなんです。

 3番目に、すぐできる紙飛行機などを折って、
少し離れたところ(向かい側など)にいる子に向かって投げてあげます。
そうすれば輪も広がりますし、たいていの場合、紙飛行機をもらった子はそれを持って外に出て、
他の友達に見せに行き、さらに友達を連れて戻ってくるので見物人が増えて行きます。

その間に、ボートや帽子など、時間稼ぎの作品を二つくらい作ります。

人が増えたなあと想ったところで、もう1回鶴を作ります。

後は雰囲気を見ながら、適当に...です。

 

もうこのころには、子どもたちはすぐ近くまでやってきて手元を覗きこんだり、
私に名前を聞いてきたりしていますから。

 

ここナボタスでもこの手順でみんなと仲良くなっていきました。

 気が付くと私の左隣に、ピッタリくっつくように小さな小さな、とてもかわいい、
お人形さんみたいな女の子が座っていました。

 

後で聞いた話、彼女はここのお母さんであるアテ ルーシーの姪っ子さんで2歳、らしいですが。

 

不思議なことに、私は「この子が1番かわいい」とか「かっこいい」と思った子に相手からも好かれる...
という特性を持っています。

 

マラボンのジャナンロバートがそうだったのですが、
この2歳の子も、基本的にはお客さんには寄って行かないすごくシャイな子らしいのですが、
なぜか私にピッタリくっついて手を伸ばしてきていたので(たんに折り紙がほしいだけ?)、
いやあ、今日はこの子を連れて帰ろうかな、と。

 

 小学生、あるいは高校生ともなれば、それなりに英語が話せます。

すくなくとも、"What's your name?"とか"Where are you from?"ぐらいは言えますし、
簡単な会話なら私の答えも理解しています。

なので、コミュニケーションをとるのはマラボンよりはるかに楽です。

 

 ダフネさんの指示で最初に私、その後一人ずつ自己紹介をし、そこから質問タイムです。

「どうやって料理するの?」

「道路を渡る時はどうやって判断するの?」

「どうやってフィリピンまで一人で来たの?」

「どうやってノートとるの?」など、

ここでの質問はHowが多かったです。

アイバンという14歳(高校3年生)の男の子がとにかくおしゃべりandムードメーカーで、
次々とくだらない(?)質問を続けるのですが、
いつものように出るのが

"Do you have a boyfriend?(彼氏はいるの?)"。

ここでたんにNoと言うと場がしらけるだけなので、

"No.I am looking for!(いません。今募集中です)"

と付け加えるのがいつもの私の答えなのですが、彼の返事は予想通り

"I am single.(僕、彼女いないよ)"、

周囲冷やかしと爆笑...という。

 

ここの男の子たちの中で1番かっこいいのは13歳(高校1年生)のデブンでしょうか。

21人いる子どもたちの中で彼が1番英語がうまく、
みんなからの質問の多くを彼が代表して英語で言うのですが。

いつものようにみんなに折り紙でエロプラノ(タガログ語でairplaineの意味)と
ソンブレロ(タガログ語でhat)を教えた後、
ダフネさんの指示でみんながお題に合う絵を書き、今日のプログラムは終了です。

 

すると、帰り際にデブンは私の前にやって来て、

「これ、リメンバランスとして君にあげるから。
僕の名前はデブンだぞ、覚えててね」と、

折り紙で今日作ったエロプラノとソンブレロを渡して帰ったのでした。

 

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 今さらこんなことを書かなくてももう分かっているよと言われてしまうかもしれませんが、
私はフィリピンの人々の人柄が好きです。

 

日本人よりもフレンドリーで自分とは違う人(外国人や障害者)に偏見を持たず、
他人に優しいところ、かと言って欧米の方々のように「自己主張第1」ではないところ...
それら全てが好きです。

 

 私とダフネさんは五日間ずっとデイケアセンターに寝泊まりしていたわけなのですが、
そこの先生方のうち1番年上のアテ ルースがずっと私たちの面倒を見てくれていて、
放課後も家には帰らず私たちに着き会い、夕食を作るのを手伝ってくれ、
1度家に帰って自分も夕食を食べた後、再びデイケアセンターに来て夜はいっしょに寝てくれる...
というようなかんじでした。

 

で、朝起きると、すでに彼女は起きていて、朝食の準備を始めているのです。

それに、寝る時は私とダフネさんはコンクリートの床の上に
御座みたいなのとシーツを敷いていますが、彼女の寝どこはありません。

たぶん、椅子に座ったまま机に凭れて少し仮眠をとっているだけなんです。

 よくそれで体力がもつなあと、大学生の私でさえきついと思うような生活をしてくれているのに、
彼女は愚痴の一つこぼしませんし、
「私はあなたたちのために苦労しているのよ」
というような態度はいっさい見せません。

 

 私はそんな彼女を人間として尊敬していましたし、心から感謝していました。

 

 そのような気持ちをぜひ彼女に一言伝えたいのですが、

「あなたをすごい人だと思うんです、感謝してるんです」

などとストレートに言ってしまうと、

「そ、そんな...、私はただ...」となってしまうのがフィリピンの人たちです。
(そんなところは日本人とちょっと似ているでしょうか)。

 

だから私は最終日の朝、以下のように言いました。

「アテ ルース、いったいあなたはいつ寝てるんですか?
だって、私が寝る時にはまだ起きていらっしゃるし、
私が目を覚ました時にはすでに起きていらっしゃるし...」。

 

これで彼女には十分私が言いたい意味は通じています。

 

「あなたが寝る間も惜しんで私たちのために尽くしてくれていることを知っています、感謝しています」

という意味なのですが、彼女は嬉しそうに笑って、「ちゃんと寝てるわよ」と優しく答えたのでした。

 

 3月11日金曜日の午後、保護者とのforumを終えた後、
私とダフネさんはマラボンの人たちにお別れして、マラテへ帰ります。

 

ジプニーを二つ乗り継ぎ、モニュメントの駅から電車に乗り、
下車してからサイドカーに乗るために待合室で待っていた時、
ダフネさんが妹からテキスト(携帯の番号で遣り取りできるメール)を受け取りました。

 

『日本で地震があったらしいんだけど、あなたのパートナー、Japaneseじゃなかったっけ?』

 

というそのテキストをダフネさんが英語に訳して教えてくれました。

以前サービスラーニングで1カ月いなかった時にも、
どこか中部地方辺りで小さな地震が起きたらしいことを帰国後聞いたので、
ああまたかあと呑気に想いながら、

...でも待てよ?その時はフィリピンにはそんなニュースが入らなかった...、

フィリピンにまで伝わっているということは...。

「大きいのですか?」

「分からない、妹はこれしか書いてなかったから。妹にテキストしてみるね」

「日本のどこなのか知りたいです」

しかしまあけっきょく、誰に聞いても「とにかく日本」という返事しか得られず、
夜に日本に住む人たちと連絡がとれるまで、私は震源地がどこなのかも、まったく何の情報も得ていませんでした。

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 質問タイムでは様々な質問が出ましたが一部ご紹介します。

「視覚に障害のある子を持った親のために、私たちに何かアドバイスをいただけませんか?」

「子どもたちが小さいころから、とにかく一つでも多くの物を触らせ、実体験を積ませてあげてください。
子どもたちは見て学ぶことができないのですから、触って体験してみるしか無いのです。
私が幼稚園のころ、先生は私たちを海や山やショッピングモールなどあちこちの場所に連れて言ったり、
様々な植物や生き物を触る機会をくださいました」

 

「日本にも差別はありますか?」

「時と場合にもよりますが、あります。
たとえば私が小学校の時、スイミングスクールに入るのを断られたことがありますし、
一般の学校に通っていじめられる子もいます。
私の親でさえ、お前は目が見えないんだから、どうせろくな就職先無いんだから、大学に行かなくていいと言いました」

 

もう最近ではいろんな人に言い慣れていることなので、
たんに英語になっただけで、私は軽くこれを口走ったのですが、
後で分かった話、この時参加者の方々はたいへんなショックを受けたようでした。

 

フィリピンでは、家族というものは日本以上に大事です。

そう言うと、日本でも家族を何より大切に思っている人はいるという反論を受けてしまうかもしれませんが、
でもフィリピンでは、自分はどうなってもいいから家族を幸せにしたいと言葉も通じない国に働きに出て来たり、
子どもを養うために徹夜でゴミ拾いをしたり体まで売ったりと、たぶん家族を想う気持ちは日本人より強いのです。

 

たまに...それが何かの表紙にひっくり返って、子どもをお金に変える親が生まれたり、
ストリートチルドレンが生まれたりと、日本以上に正反対の酷い状況を生み出してしまうのですが...。

 

 forumの最後には、パンにマヨネーズを挟んでサンドイッチを作るというデモンストレーションを行います。

「私が一人で暮らしているとか、料理をするとか言ってもきっとみんな想像がつかないでしょうし
信じてもらえないでしょうから、何か実演することはできませんか?」

とKPACIOの方々にお願いした結果、火や包丁を使うことは認められませんでしたが、サンドイッチなら、となりました。

 

それを作っている間も、周囲を走り回って遊んでいる3人の男の子。

私は作りながらダフネさんに聞きます、

"May I give it to the children?" "Sure"、

許可をもらったので一人ずつ呼んでいきます。

 

「ロバート、ハリカ(Come here)。
アンディトカ(Here you are)」

「サラマ(Thank you)」

「ワラン アヌマン(You're welcome)」

 

タガログ語を覚え始めて五日目ともなると、この程度なら子どもたちと言葉でコミュニケーションがとれます。

かなり危なっかしいやりとりで片言のタガログ語ですが、
それでも保護者の皆さんや先生が笑顔になる雰囲気を作るには十分です。

 

 forumの後、アテ ルースとアテ マリン・アテ シェリン、そしてダフネさんに取り囲まれ質問攻めに合う私です。

「なぜ?なぜあなたのお母さんはそのようなことを言ったの?
日本では子どもを大切にしないの?詳しく教えて、何があったの?」

私の英語で言い洗わせる限りで説明します。
少なくとも「日本人は家族を大切にしていない」などという誤解は起きないように。

 

「ね?ダフネさん。だから私が大学に入ってから家に帰ったことがほぼ無いわけなんです。
そして、だから私はフィリピンをhometownのように感じ、
ここの子どもたちの教育支援をしようと思うようになったわけなんです」

と話すと、みんな今度こそ本当に納得です。
私はこれまでにもしょっちゅう、
なぜフィリピンに来たんだ、
フィリピンで何がしたいんだ、
なぜフィリピンを選んだんだと聞かれてきました。

 

表向きは、

「これまでに友達やボランティアなどたくさんの方々に支えられて自分は勉強を続けられているから、
自分も誰かの勉強の助けになれたらと想うようになって、開発学に興味を持つようになりました。
大学ではあくまで教室で講義を受けるだけなので、それ以外に実体験のチャンスを持ちたくてここに来ました」

と答えていますし、これまでも様々な奨学金や面接でもそのように話してパスしてきたわけなのですが、
実際には1番の理由は言っていません。

 

これでもたいていの人は納得してくれるのですが、
自分でも何かしら肝心なことを言っていない感は残りますし、
なぜそこまでフィリピンに入れ込むのか、本気なんだということを
コミュニティの人々に分かってもらうのには限界がありました。

このforumの後の機会を境に、私はフィリピンで、自分の高3の時の経験を語っていくことにしました。
全て話せば伝わる、相手は受け止めて分かってくれる、ということを知ったからです。

 

 少し話しは飛びますが、私は自分の経験を、土日にハリエットさん(KPACIOの代表者)
の家に帰った時、彼女にも話しました。

そしてそれはもう一人のスタッフであるジャックさんにも伝わりました
(私個人のことについては、誰に伝えてもかまわないと言ってあります)。

ハリエットさんは、

「そういうことだったのね。いやあ、前から不思議だったのよ。
あなたは最初にフィリピンに来た時から家族の付き添いも無しにFTCJのみんなと来たでしょ?
そして今回は一人でやって来た。
それに大学やFTCJの話しはするのに家の話しはしない、
授業料や生活費も奨学金でやりくりしてるって言うし...」

 

そしてハリエットさんは、来年度の私の留学について、

「お金は足りるの?どこからどれくらい奨学金が出るの?帰国後は生活していけるの?」

といっしょに計算して考えてくれたのです。

 

そして2週目にはジャックさんから、
「君を必要としているところがある。次にフィリピンに来た時には、ぜひそこに行ってほしい。
そこは、親から見捨てられたり家から逃げ出したりした8歳から17歳の子を男女別に保護している寮なんだ。
彼らは人生全ての希望を失って絶望している、夢なんて描けずにいる。
君はそこに行って、彼らに会って、自分の体験を話してほしい」

と、何度も"It's good for them"と言われたのですが、どちらかと言えばgood for meなわけです。

私には、またここフィリピンに来て、これからもKPACIOのお世話になる口実ができただけでなく、
フィリピンでもっともやりたい種類の活動ができるのですから。

 

 「それにしても、由香理、あなたは本当にJapaneseなの?
たいていのJapaneseはパーソナルな質問に答えるのを嫌がるのよ」

とハリエットさん。

「え?そうなんですか?私、気にしないんですけど...」

と言うと、ダフネさんが、

「半分Japaneseで半分Filipino(フィリピン人)なんじゃないの?
だからフィリピンで何食べてもお腹壊さないし、フィリピンに来た時hometownに感じるんでしょ」

と、超適当なことを言うのでした。

 

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 質問タイムでは様々な質問が出ましたが一部ご紹介します。

「視覚に障害のある子を持った親のために、私たちに何かアドバイスをいただけませんか?」

「子どもたちが小さいころから、とにかく一つでも多くの物を触らせ、実体験を積ませてあげてください。
子どもたちは見て学ぶことができないのですから、触って体験してみるしか無いのです。
私が幼稚園のころ、先生は私たちを海や山やショッピングモールなどあちこちの場所に連れて言ったり、
様々な植物や生き物を触る機会をくださいました」

 

「日本にも差別はありますか?」

「時と場合にもよりますが、あります。
たとえば私が小学校の時、スイミングスクールに入るのを断られたことがありますし、
一般の学校に通っていじめられる子もいます。
私の親でさえ、お前は目が見えないんだから、どうせろくな就職先無いんだから、大学に行かなくていいと言いました」

 

もう最近ではいろんな人に言い慣れていることなので、
たんに英語になっただけで、私は軽くこれを口走ったのですが、
後で分かった話、この時参加者の方々はたいへんなショックを受けたようでした。

 

フィリピンでは、家族というものは日本以上に大事です。

そう言うと、日本でも家族を何より大切に思っている人はいるという反論を受けてしまうかもしれませんが、
でもフィリピンでは、自分はどうなってもいいから家族を幸せにしたいと言葉も通じない国に働きに出て来たり、
子どもを養うために徹夜でゴミ拾いをしたり体まで売ったりと、たぶん家族を想う気持ちは日本人より強いのです。

 

たまに...それが何かの表紙にひっくり返って、子どもをお金に変える親が生まれたり、
ストリートチルドレンが生まれたりと、日本以上に正反対の酷い状況を生み出してしまうのですが...。

 

 forumの最後には、パンにマヨネーズを挟んでサンドイッチを作るというデモンストレーションを行います。

「私が一人で暮らしているとか、料理をするとか言ってもきっとみんな想像がつかないでしょうし
信じてもらえないでしょうから、何か実演することはできませんか?」

とKPACIOの方々にお願いした結果、火や包丁を使うことは認められませんでしたが、サンドイッチなら、となりました。

 

それを作っている間も、周囲を走り回って遊んでいる3人の男の子。

私は作りながらダフネさんに聞きます、

"May I give it to the children?" "Sure"、

許可をもらったので一人ずつ呼んでいきます。

 

「ロバート、ハリカ(Come here)。
アンディトカ(Here you are)」

「サラマ(Thank you)」

「ワラン アヌマン(You're welcome)」

 

タガログ語を覚え始めて五日目ともなると、この程度なら子どもたちと言葉でコミュニケーションがとれます。

かなり危なっかしいやりとりで片言のタガログ語ですが、
それでも保護者の皆さんや先生が笑顔になる雰囲気を作るには十分です。

 

 forumの後、アテ ルースとアテ マリン・アテ シェリン、そしてダフネさんに取り囲まれ質問攻めに合う私です。

「なぜ?なぜあなたのお母さんはそのようなことを言ったの?
日本では子どもを大切にしないの?詳しく教えて、何があったの?」

私の英語で言い洗わせる限りで説明します。
少なくとも「日本人は家族を大切にしていない」などという誤解は起きないように。

 

「ね?ダフネさん。だから私が大学に入ってから家に帰ったことがほぼ無いわけなんです。
そして、だから私はフィリピンをhometownのように感じ、
ここの子どもたちの教育支援をしようと思うようになったわけなんです」

と話すと、みんな今度こそ本当に納得です。
私はこれまでにもしょっちゅう、
なぜフィリピンに来たんだ、
フィリピンで何がしたいんだ、
なぜフィリピンを選んだんだと聞かれてきました。

 

表向きは、

「これまでに友達やボランティアなどたくさんの方々に支えられて自分は勉強を続けられているから、
自分も誰かの勉強の助けになれたらと想うようになって、開発学に興味を持つようになりました。
大学ではあくまで教室で講義を受けるだけなので、それ以外に実体験のチャンスを持ちたくてここに来ました」

と答えていますし、これまでも様々な奨学金や面接でもそのように話してパスしてきたわけなのですが、
実際には1番の理由は言っていません。

 

これでもたいていの人は納得してくれるのですが、
自分でも何かしら肝心なことを言っていない感は残りますし、
なぜそこまでフィリピンに入れ込むのか、本気なんだということを
コミュニティの人々に分かってもらうのには限界がありました。

このforumの後の機会を境に、私はフィリピンで、自分の高3の時の経験を語っていくことにしました。
全て話せば伝わる、相手は受け止めて分かってくれる、ということを知ったからです。

 

 少し話しは飛びますが、私は自分の経験を、土日にハリエットさん(KPACIOの代表者)
の家に帰った時、彼女にも話しました。

そしてそれはもう一人のスタッフであるジャックさんにも伝わりました
(私個人のことについては、誰に伝えてもかまわないと言ってあります)。

ハリエットさんは、

「そういうことだったのね。いやあ、前から不思議だったのよ。
あなたは最初にフィリピンに来た時から家族の付き添いも無しにFTCJのみんなと来たでしょ?
そして今回は一人でやって来た。
それに大学やFTCJの話しはするのに家の話しはしない、
授業料や生活費も奨学金でやりくりしてるって言うし...」

 

そしてハリエットさんは、来年度の私の留学について、

「お金は足りるの?どこからどれくらい奨学金が出るの?帰国後は生活していけるの?」

といっしょに計算して考えてくれたのです。

 

そして2週目にはジャックさんから、
「君を必要としているところがある。次にフィリピンに来た時には、ぜひそこに行ってほしい。
そこは、親から見捨てられたり家から逃げ出したりした8歳から17歳の子を男女別に保護している寮なんだ。
彼らは人生全ての希望を失って絶望している、夢なんて描けずにいる。
君はそこに行って、彼らに会って、自分の体験を話してほしい」

と、何度も"It's good for them"と言われたのですが、どちらかと言えばgood for meなわけです。

私には、またここフィリピンに来て、これからもKPACIOのお世話になる口実ができただけでなく、
フィリピンでもっともやりたい種類の活動ができるのですから。

 

 「それにしても、由香理、あなたは本当にJapaneseなの?
たいていのJapaneseはパーソナルな質問に答えるのを嫌がるのよ」

とハリエットさん。

「え?そうなんですか?私、気にしないんですけど...」

と言うと、ダフネさんが、

「半分Japaneseで半分Filipino(フィリピン人)なんじゃないの?
だからフィリピンで何食べてもお腹壊さないし、フィリピンに来た時hometownに感じるんでしょ」

と、超適当なことを言うのでした。

 

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フィリピン、KPACIO体験談その11、浦島太郎


 3月10日金曜日、今日がマラボンのスラムで過ごす最終日になります。

授業では折り紙は行わず(160枚も持って来たはずの折り紙がもう足りない)、story tellingを行います。

ここに来る前、日曜日からダフネさんと話しあって、
「日本の子供向けのstoryで何か話してほしい」と言われ、
またあくまで「授業」なので何かしら教育に繋がるメッセージのある物語を
...ということで、私は浦島太郎を選びました。

約束を破って玉手箱を開けたから太郎は不幸になってしまった...、
約束は破っちゃだめなんだよ、という道徳教育です。

 

月曜日から毎晩、アテ ルース(先生の一人)の息子さんがストーリーに合う絵を描いてくれていて、
金曜日までには見事に色も塗られた8枚のシーンができあがりました。

紙芝居のように、1枚ずつ絵を翳しながら私が英語で話し、
1センテンスずつダフネさんがタガログ語に訳します。

お話しが終わった後はダフネさんが引き取り、

 「みんな、主人公の名前は覚えてますか?

そうだね、太郎だね。太郎は男の子ですか、女の子ですか?何をしてた人ですか?」

と言う風に、子どもたちがちゃんと聞いていたかも含めて復習を行って行き、

「だから約束は破っちゃだめなんだよ」までに繋げて行きます。

 

 午後からは以前から日程表に

Forum for parents by Yukari(由香理による保護者のための講演会)

と書かれていたものです。

最終的に集まったのは高校生からお母さん方の約27人。
私の話しの1番最初はタガログ語で始まります。

「マガンダン ハポン(Good afternoon)。
アコ スィ 由香理(My name is Yukari.)
ガーリン アコ サ Japan(I'm from Japan.)。
アコ アイナサ コレヘヨ(I am college student.).
21 ダラワンポ イランタオングラン(I am 21 years old.)。
マサヤ アコ ナ ナキララ クー イカオ(Nice to meet you.)。
サラマ サ パグプンタ(Thank you for comming.)。


とりあえず...金曜日になるころには、これくらいは言えるようになっていました。

 

まあ、ここから先は英語ですが...。
自分が見えなくなった時期と理由、幼稚園から高校までどの段階にどのような教育(や生活訓練など)を受けたかを、
白杖や点字版・ブレイルメモを見せて実演しながら示し
(点字版では自分の名前を紙に書いてそれを回して実際に触ってもらいます)、
そして大学に入ってからの経験からなぜフィリピンに来るようになったかの理由までを、
だいたい10分から15分くらいで話します。

 

その後、30分から40分くらい、質疑応答の時間です。

このコミュニティの大人たちは英語を話すことはほとんどできないので
質問はタガログ語でダフネさんが通訳してくれるのですが、
多くの人が英語を理解はしているので私がしゃべることについては通訳はいりません
(たまにダフネさんが分かっていない人のためにタガログ語で補足していました)。

 

で...本当ならKPACIOのほうも、デイケアセンターの先生方も
このforumはちょっとフォーマルなかんじでやる予定だったらしく、
日頃子どもたちが使っているテーブルにテーブルクロスをかけたりして、
堅苦しい雰囲気にしようとしてたんです。

 

ところが、教室に出入りするのは保護者や高校生だけではなくて、
授業が終わって退屈した子どもたちも自由に出入りしては空気を読まずにその辺を走り回ったり、
講演途中の私に突進して来てみたり、お客さんがタガログ語で質問している間に子どもたちは私に話しかけてみたり...。

 

そもそも、私はこのforumがフォーマルな堅苦しい感じになるのが嫌だったので、
子どもたちが空気をぶち壊してくれることに救われました。

 

しゃべりながらも子どもたちと手を繋いで遊びながら続きをしゃべっていた私ですから。

 

また、「余所者のお客さんで一方的に講演する人」になりかねないイメージを、
「うちの子があんなに楽しそうにしてるんだから、仲間に違いない」と保護者に思わせてくれたのも子どもたちです。

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次のsecondly classでは別の苦労が待っていました。


授業開始前に子どもたちが教室に来たので、私は何気なく机の上で折り紙を始めます。
期待どおりすぐに左右にぴったりと二人の女の子が寄ってきます。

右にいるのがビゲール、左にいるのがシスティマー(両方4歳)です。

私が鶴を折っているのを二人は両側から除きこみ、熱心に見ているのが分かります。
折り終わるとそれを受け取るビゲール。
システィマーが「アノパ」と言ってきます。

 一昨日習った単語で「アノパ」が他には?という意味だと知っているので、
どうやら他にも作れと言われているみたいです。

 

...初めて、子どもたちの言うことを理解できた瞬間です。

 

私はさらに幾つか物を作ったのですが、
終わる度に両側から「アノパ」と催促を受けるので、止めることができません。

 

いいえ、なぜ止めることができないかと言うと、毎回折り終わるとそれをビゲールが受け取るのですが、
後にシスティマーが力ずくでビゲールの手から奪い取り、ビゲールがものすごく怒っているのです。

終いには、折り紙を折っている私と手が当たらんばかりのところに二人が手を出して、
できあがったら我先に受け取ってやろうと待ちかまえているという...。

 私は言葉ができないので、二人の喧嘩を抑えることはできないため、とにかく気をそらします。

 

新しい折り紙を出す度に、「アノン クライ イト?(何色?)」と聞き、二人に答えてもらうのです。

 

6.7歳のクラスになれば私のタガログ語のアクセントが多少おかしくても子どもたちは理解してくれますが、
3.4歳のクラスでは確実に発音できていないと通じません。

 でもこの「アノン クライ イト?」は子どもたちに通じているみたいで、色を答えてくれます。
自分の怪しい怪しいタガログ語に少し自信を持ち始めたきっかけです。

 

 さて、折り紙を折って子ども一人に渡してしまった人は、
その部屋にいる全ての子どもに折り紙を渡す責任があります。

じゃないと不公平となって喧嘩を招いてしまうからです。

 

今日の出席者は7人。

だから最低でも7こは何かを作らなければならないことは覚悟していました。

 

ところが...、

明らかに7こ以上は作ったと想われるのですが、永遠に終わらない二人からの催促と二人の喧嘩。

 

言葉があまり分からないので状況がきちんとは掴めていないのですが、
私がそろそろ何かを折り終わる気配を見せると二人が「アコデー」と言います。

「アコ」は私という意味なので、たぶん「アコデー」はIt's mineみたいなかんじだと思われます。

 

できあがった瞬間にはシスティマーはそこにはいないんです。
だから右側にいるビゲールが受け取ります。

しかし、システィマーが後からやって来て、ビゲールの手からそれを奪い取って行き、
机の真ん中に集めて守っているようなのです。

ビゲールは怒って右手で机を叩きながら、左手を私のほうに出します。

新しい物を作れ、と。

さらにビゲールは机の周りを指さしながら"1234567"と数え、
その後机の真ん中を指差しながら"12345678"と数えて何か文句を言っています。

 

たぶんですが、

「私たちは7人でしょ?折り紙は8こでしょ?だから一人1こでしょ?なのに、なんで全部取るの?」

と抗議しているのです。

 

彼女の言っていることはけっこう正しいのですが、聞く気など無いシスティマー。

っと、ようやく四日目ともなると子どもたちの言ってることは雰囲気から理解はできるようになった私ですが、
この状況をどうすることもできません。

 

せいぜい、取りあおうと待ちかまえている二人に「ヒンタイ(ちょっと待って)」と言う程度なのですが、
これも本当にヒンタイは待ってという意味なのか?

と疑問に想うほど子どもたちは聞いてない。

 

この体験を境に私は「サバイ(togather)」さらに「サバイサバイ」で「いっしょにね」みたいな意味の言葉や、
「ピラ(列)」さらに「ピラピラ」で「列になって並んで」みたいな意味の言葉、などを覚えたのでした。

しかも...もう10時を過ぎていて授業開始時間は過ぎているはずなのに、
いっこうに授業を始めようとしない先生方。

ダフネさんなんて、携帯でハリエットさん(KPACIOの代表者)と電話してますし...。

3.4歳の子たちは机に縛り付けて文字を学ばせるよりも、
睡眠や遊びのほうを重視すべきと考えられています。

 

子どもたちが夢中になるものがある今、それを押しとどめて授業をする必要はない、
という判断なんでしょうけど、それプラス、

ちょうどいい機会だ、今日は自分たち教師は楽ができる...

と思っているように見えてなりません。

 

まあ...、子どもたち以外のメンバーの中では最年少は明らかに私で、
たぶんいっしょに遊べる気力があるのも私だけだと想われるので、仕方が無いのですが、
前のクラスですでに襲われている私なので、かなり体力の限界に来ています。

 

けっきょくこの日、secondly classでは授業らしい授業は行われませんでした。
午前中のクラスで疲れきってしまい、午後のクラスはテンションが上がらず、
もはや子どもたちの相手をすることに気乗りがせず、ものすごく手抜きをしたという、まだまだ未熟な有様なのでした。

 

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 3月8日木曜日。

 この日はフィリピン滞在中でもっとも楽しい、しかしもっともhardな日となりました。

 

毎日違う折り紙を教えているのですが、今日教えたのはパペットだったんです。
教え終えた後、ダフネさんが余計なこと言うからいけないんですよ。

 

「じゃあみんな、パペットを使って、アテ由香理とお話ししましょう」

...とたんに6.7歳の子どもたち16人が立ち上がり、たちまち囲まれる私です。

お話しと言っても、最初は"Hello"とか「マガンダン ウマガ(Good morning)」とか言っていますが、
それ以上会話ができないので子どもたちは何をするか...、

体でぶつかってくるにきまってます。

 

その日からまるで彼女でも作ったかのような気分で私をリードする7歳の男の子ロバートがいたのですが
(なかなか男らしい子で私が思うに生徒の中で1番かっこいい、10年後が楽しみなかんじな子です)、

ロバートが最初にパペットを使って私の指を掴んで引っ張ったりし始めたのを合図に、
後は子どもたちに襲われてる私です。

しかもダフネさん、「じゃあ10分間自由時間ね」という恐ろしい一言。

ま、まさか私は10分間体を張るのか?

 

 フィリピンは暑いというのと、ジプニーなどは窓が無いので風がまともに当たるという理由で
フィリピンにいる時私はたいてい髪を結んでいるのですが、
ここ2.3日の経験で子どもたちと関わる時には髪を結ばずそのままにしています。

 

理由は、一人でも多くの子が私に関わるチャンスを得られるように、です。

 

1番人数の多い6.7歳のクラスは全部で16人、
そうすると、私としては子どもたちみんなに囲まれているかのように思っていますが、
実際には直接私と触れ合っているのはほんの4.5人ほどで、
後の子たちは手が届かないわけなんです。

髪をそのまま伸ばしておくことで、ちょっと遠くからでも髪を引っ張って私を振り向かせる...などが可能になり、
関われる子の人数は8人から10人くらいにまで増えます。

これでも、その騒ぎに割って入ることのできないのこり6人くらいは、
取り巻きとして見ていることになってしまうのですが...、

それ以上は私の体力の限界なのでどうしようもない、と言うしかありません。

 

まあこれで、「襲われている」という状況は理解していただけるでしょ?

私は机の前の椅子に座っているので、基本的には左右か後ろからしか子どもたちは来ない...

と思っていたら、

たまあに頭のいい子が向かい側から机をよじ登って前から責めてきて、
私をぎょっとさせるのでした。

 

っとそんなことにぎょっとしている間に左から私のtシャツを引っ張るやつ...

「何だ何だ...じゃなくって、アノン ギナガワ モー(Whatare you doing?)」

当然、子どもたちは聞いてません。

 

ロバートはいちおう最年長なだけあって手加減というものを知っていて、
あまりにエスカレートしてくる子がいると怒って追い払うのでした。

 

いやいや、最初にやり始めたのはお前だろ、と想いながら...、

でもとにかく彼のおかげで私は子どもたちにバラバラにされずに済みました。

 

 後で知った話しですが、そんな様子を先生方はのんびりカメラやビデオで撮影していたのでした。

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 3月9日水曜日。

いつものように午前最初のクラス(6歳後半から7歳)を終え、
secondly class(3.4歳)を終え、
afternoon class(5歳と6歳前半)の時間になりました。

 

昨日空き地で遊んだジャナんやジャレットはこのクラスの生徒です。

授業は1時からですが12時15分を過ぎるともう子どもたちがデイケアセンターに集まり始めます。

 

私はその子どもたちに囲まれながら、折り紙で鶴や朝顔・ボートなど、
子どもたちが自分では作れない物を折っては一人一人に渡したりしていました。

 

ちなみに、私とダフネさんは教室となっているこのデイケアセンターで生活しているため、
朝は6時前には起きて7時までには準備を整えなければなりませんし
(授業は7時半からですが7時ごろから生徒が集まり始めるため)、
お昼も12時にsecondlyclassが終わり、急いでお昼ご飯を食べ始めても
途中でafternoon classの生徒が現れるっというかんじで、

さらにマラボン滞在三日目になってくると子どもたちも私たちがここに住んでいるのを知っているので、
夕方も突然ひょっこり遊びに来たりするので、
朝7時ごろから夕方7時を過ぎるまでは、教育者としての仮面を外すことはできないですし
あまり気を抜いた態度も見せていられません。

 

だから毎日どこかで子どもたちの目を気にし、
何もしてないのに1日の終わりには気疲れでヘトヘト...ということになるのです。

 

 授業の初めには決まってみんなでまずフィリピンの国家を歌い、
お祈りをした後exerciseと呼ばれる体を動かしながら子供向けの歌をいくつか歌い、
それから授業が始まります。

 

いつもなら私はそこまでは座って見ているだけなのですが、
このクラスには昨日いっしょに遊んだジャレットとジャナンがいるため、
exerciseの途中でいきなり左右から手を引っ張られ、
立っていっしょに参加しろとばかりに二人に連行される私です。

 

「え?私もやるの?」と、
焦った私は5歳の子におもいっきり日本語で聞いてましたから
(まあ英語で聞いたところで通じないのは同じですが)。

 

放課後もジャナンはいつまでたっても家に帰ろうとはせず、
私の手を握ったまま座っていて、先生方に

「ジャナン、アテ 由香理にboyfriendがいたらどうするの?
あなたboyfriendから由香理を取ったんじゃないの?」

と笑われていて...、
しかし彼女はそんな声はまったく気にせずに、
扇風機の風で私の髪の毛が1本でも乱れる度に丁寧に直してくれるのでした。

 

 水曜日の夜、いつものようにダフネさんにタガログ語の単語を聞いて覚えます。

三日目ともなるとずいぶん語数が増えてきて、

"What is it?"
"What are you doing?"
"What do you mean?"

など私が状況を知るための言葉を覚え始めます。

さらに、色の名前やmanyなどの形容詞も増えてきます。

 

その後、ダフネさんにこのデイケアセンターに来る子どもたちはお金を払っているのか
(入学金が200ペソ[400円ですが彼らの価値観で言うと4000円くらい]そして授業料と給食費で月150ペソ)、

このスラムの人々の収入は幾らくらいなのか
(月4000から6000ペソ[レストランで1食食べると100ペソくらい)、

...などなどコミュニティ三日目にして状況が分かり始めて出てきた疑問をぶつけていました。

 

説明するまでも無いとは思うのですが、

たとえば月給4000ペソで家族5人いたとしたら、
彼らは1日120ペソ(240円)ほどで暮らすことになり、
どんなに切り詰めても家族5人の食べ物で1日100ペソはかかってしまうので、
そうなると残るのは1日あたりたったの20ペソ。

1カ月ぶん貯めたとしても家賃すら払えるかどうか怪しい状態ですから、
子どもの授業料なんてどこをどう探しても出すお金は無い...となってしまうわけなんです。

 

 私は今回フィリピンのスラムの人々とまったく同じ生活をするんだと覚悟を決めて来たことは以前書きましたが、
それ以外にも今回はいろいろと勉強してから来ていました。

去年のスタツアの時、KPACIOのスタッフの一人であるジャックさんが、

「日本人は、日本軍が第2次世界大戦の時フィリピンで何をしたかを知っておかなければならない」
と言っていたのを覚えていたので、日本の歴史教科書には載ってない、それをなんとかして学ぼうとしました。

インターネットで探しまくって、『日本軍はフィリピンで何をしたのか』という本を見つけました。

渡航までに読み終えることができず、ここマラボンに来てからも毎晩私は本を読んでいました。

 

「由香理はいつも何を読んでるの?」とダフネさんに聞かれ、上に書いたようなことを伝えます。

 

とにかく...、タガログ語を覚えるだけじゃなくて、フィリピンに本気なんです。

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 昨日は午後のクラスでしか紙飛行機を教えていないので、
午前中のクラスでは昨日の午後と同じことをし、午後のクラスでは鶏の折り方を教えます。

 

 授業の後、私はコミュニティの中を歩きたいと申し出ました。

理由は二つあります。

一つはこのままでは私はこのデイケアセンターの中だけで五日間を過ごしてしまう、
自分がどんなコミュニティに来たのかも知らずに...、ということに不安を覚えたことです。

二つ目は、あえて見せ物になるためです。
本当ならば全員とゆっくり時間をかけて関わり、話しができれば1番いいのですが、
それが難しい場合、ただ見せ物として私を見てもらうだけでも、彼らにとって何か新しいものがあるはずです。

視覚障害者が一人で外国からやって来た、
どうやらデイケアセンターで子どもたちに折り紙を教えているらしい...、

その噂が広がるだけでも彼らにとって新しい世界だと思うのです。

 

 コミュニティを歩き回った後、近くの空き地にやって来ました。

 

ここの近くには、デイケアセンターに来ている生徒の一人、
ジャレットという6歳の男の子の家があります。

ジャレットは弟とともに空き地で遊んでいました。

私を見ると寄ってきて、何か言います、でも私には分かりません(タガログ語なので)。

 

後にジャナンという、この子も生徒の一人である5歳の女の子がやって来て加わります。

私にはダフネさんと、アテ ルース・アテ シェリンが同行してくれていたのですが、
私たちは空き地のベンチに座って、子どもたちが走り回るのを見ていました。

 

ジャナンはどういうわけか、しょっちゅう私の隣にやって来てはピッタリくっついて座ります。

"Hellow"とお互いに挨拶し、

「アノン パガラン モー?(名前は何?)」

「ジャナン」

「ジャナン?イランタオンカナ(何歳なの?)」

「five years old
(たいていfiveとだけ答える子が普通なので、この年でyears oldの英語を知ってる子は珍しい、
そうとう頭がいいことを意味しています)」

 が、悲しいことに私たちが会話できるのはここまで。

 

理由はもちろん、私がタガログ語を話せないせいです。

 

にもかかわらず、彼女はそんな言葉も通じない、
ジェスチャーも表情も見えない私の隣から立ち上がろうとはしないのです。

 

たまに立ち上がってちょっと他の二人に加わってその辺を走り回り、
そしてまたすぐ私の隣に戻ってきて座っては"Hello"と言うのでした。

 

どうやらこの子は私を好きでいてくれるらしい、ということは言葉が通じないながらも理解します。
終いには手を繋いで座っている私たちです。

 さてさて、6歳になるジャレットですが、これがお調子者な男の子で、
お客さんがいるとなると張り切って、年下の二人をひきつれてみんなの前でダンスを披露したり、歌を披露したり。

クラスで最初にやるaction songの時も、先生からちょっとおだてられれば教室の前に出て、
みんなの前で大得意に式を撮るようなタイプの子です。

 

そんなジャレットが、「アテ由香理もこっちで僕たちといっしょに遊ぼうよ」と言って、
ジャナンと二人でそれぞれ手を引っ張って空き地の真ん中に私を連れて行き...。

 

先生方とジャレットのお婆ちゃん
(スラムでは20歳くらいで子どもを生み始めるのでお婆ちゃんとは言っても50歳になるかならないか歳くらい)は
にこやかに見ています。

 

子どもたちの輪に入れてもらえたこと、それはこのコミュニティに入れてもらえることの始まりでした。

 

子どもたちの様子を見て、お婆ちゃんの壁が取れたらしく、
彼女は家からコーラとクッキーを持ってきて、私たちに出してくれます。

 

このクッキーが砂糖をまぶしたようなやつでどう気を付けて食べても粉がパラパラ落ちる困りものなのですが、
私のズボンに粉が落ちる度、すかさずジャナンが丁寧に丁寧にそれを払い落してくれるのでした。

 

そして、私が一袋(2枚入り)のクッキーを食べ終えた時、
ジャナンは自分のクッキーを割って、欠片を私にくれたのです。

 

まず夢の無いことから書いてしまえば、正直この欠片はけっしてきれいではありません。
毎日外で遊び、手を洗うことなどしない子どもたち、さっきまでどこで何を触っていたことやら...。

もちろん私は「サラマ(ありがとう)」と言って、躊躇いもせずその優しさのかけらを口に入れます。

 フィリピンにいる時、私は子どもたちからもらった食べ物は何でも目の前で食べることにしています。

 万が一お腹を壊したら、それはその時です。

言葉を理解しない私へのジャナンの愛情表現、
それはズボンに落ちた粉を丁寧に払い落すことと、自分のクッキーを分けることと、
風で私の髪の毛がちょっと乱れる度に丁寧に直してくれることでした。

あまりにも彼女が私にベッタリなので、

「ジャナン、あなたアテ由香理といっしょに日本に行くの?」とダフネさん。

彼女はその気になったらしく、小さな木のベンチに馬のように跨って、日本に行くと言うのです。

いったい...日本がどこにあると思っているのでしょうか。

 

 ジャレットは木に登っていました。木の上から、「アテ由香理ー」っと呼んで、何かを聞いてきました。

"What did he say?"あわててダフネさんに通訳を求める私です。

「明日は折り紙で何をやるの?」と彼は聞いたらしいのです。

この時、子どもたちが毎日の折り紙を楽しみにしてくれていることを知りました。
なにしろ言葉が通じないうえに表情が見えないので、自分がやっていることは受け入れられているのかこれまで不安でした。

折り紙をやっている最中に立ちあがって歩き回ったりしている子たちもいるので、つまらないのかな、と。

翌日から、自信を持って子どもたちと関わるようになっていく、そのチャンスをくれたのはジャレットとジャナンでした。

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 その日は子どもたちに紙飛行機の折り方をまず教えました。

これも事前にダフネさんや先生方とどういう順序で授業を進めるか打ち合わせてあって、
まず私が自己紹介をし、

「私は日本から、飛行機に乗ってフィリピンへやってきました。
今日はみんなで、私が乗ってきた、その飛行機を作りましょう」

という流れで紙飛行機作りに移行し、
折り終わって少し飛ばして遊んだ後はダフネさんや先生方にバトンタッチし、

「飛行機からはどんな物が見えますか?雲もあるね、太陽もあるね、家もあるね、人もいるね」

などと子どもたちから意見を出させ、

「では、紙飛行機を紙の真ん中に張り付けて、
その周りに飛行機から見える物を描いてみましょう」

という流れに続けます。

絵が出来上がったら順番にそれを持って私とダフネさんの前に来て、
名前と年を言った後、何を書いたか説明する...というのが、子どもたちの今日の授業です。

 

子どもたちとダフネさんの会話を通して、

「What is your name?が『アノン パガラン モー』」であること、
「How old are you?が『イランタオンカナ』」であること、
その他houseはバハイ、treeはプノ、太陽はアラオ、
また「家と木と...」と言うときの「と」は『サカ』だということなどを覚えます。

 

絵を描いた後は、新聞紙で紙鉄砲の作り方を教え(これは音が出るので子どもたちに人気なんです)、
school feedingと言ってめいめい持ってきたお皿に食事をあげて、一つのクラスがおしまいです。

 

子どもたちの中には1日3食食べられない、
食べられたとしても非常に栄養の偏った食事しかできない
(母親が栄養バランスを考えるという教育を受けていない)子が多いので、
せめて1日1食でも学校に来た時くらいは体にいい食事を...というプログラムです。

 

 クラスが終わった後、明日も紙鉄砲をやるということで、
新聞紙を4分の1に切ったサイズの物(子どもたちには普通の新聞紙では大きすぎる)が48枚必要だとか。

 

ダフネさんがそれを作り始めたので、「ダフネさん、私、やりますよ」と引き受けて、
とりあえずあえて下働き的なことがしたい私です。

 

 

 火曜日。

「由香理、クラスは7時半からだけど7時ごろから子どもたちが来始めるからそろそろ起きなさい」

と呼ばれてあわててとび起きます。

私たちはデイケアセンターで寝泊まりしているのです。
夜は、教室のコンクリートの床に御座みたいなのを敷き、
その上にシーツを敷いた上に寝ているという、非常に堅い寝床です。

初日は慣れない堅さにしょっちゅう目が覚めてあまり寝ていなかったので、
6時半前に起こされた時にはまったく眠れた気がしていなかった私です。

あわててご飯を済ませ、あと10分あるからシャワーを浴びていいと言われ。
ちなみにここのバスルーム、教室からカーテン1枚で区切られただけで、ドアも何もありません。

 

日本でいうスーパーのお手洗いの個室くらいの広さのところに、
便器とバケツだけが置かれた、非常に狭いスペースです。

まあ、スラムではこれがあたりまえ、ゴキブリが下にウジャウジャしていないだけましなんです。

 

去年初めてこんなバスルームに入れられた時は、
すぐそこ、カーテンの向う側には家族団欒があってお父さんもいるという雰囲気で、
今から服を脱ぐことにまず10秒躊躇し、
そしてこの狭くてきたないスペースでいったいどこをどうきれいにしろと言うのかと、日本に帰りたいと思った瞬間でしたが、
今回、フィリピン3回目ともなれば、このバスルームでどうどうと髪の毛まで洗っている私です。

 

お気づきのとおり、日曜日にシャワーを浴びたっきり、昨日月曜日はお風呂に入れていません。

部屋が一つしか無いので着替えることもできていません。

シャワーはよくて二日に1回、現地民なら週に2回くらいしか浴びれないですし、
洋服も三日に1回くらいしか着変えられない、それが普通です。

お風呂に入る水も、洗濯する水も、この季節は貴重なのです。
気温は30度を超えているとは言いながらも。

 

バスルームから出る時、あまり時間が無いのでちょっと急いでカーテンをくぐろうとしたら、
上の棒ごとカーテンを外してしまい...。

「あ、ご、ごめんなさい」と焦る私に、

周囲の先生方は爆笑!

「だいじょうぶだいじょうぶ、朝からジョークをありがと」。

 

これをきっかけに、周囲からからかわれたり気軽に遊びのねたに使われるという
私のここでのキャラが確立していきます。

 

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 今回の滞在の1番の目的は、お客様扱いされないこと、
現地の人々と同じ生活を送ること、学習させてもらう身として謙虚にいること、でした。

 

1回目にFTCJのスタツアでここに来た時は初めての途上国で馴染めない部分もあり、
スラムにホームステイした日はゴキブリだらけのバスルームで
水を浴びることがどうしてもできず体だけ拭いて終わらせたり、
木の板にシーツを敷いただけの堅いベッドでほとんど眠れなかったりしました。

 

2回目のサービスラーニングの時、まるで観光旅行に来たかのような
周囲の友達たちに私は絶えずイライラしていました。

貧しい村に行くというのに毎日ばっちりメイクをする子、
土日の度に飲みに行く子、
フィリピン料理では無く、現地民から見れば高級レストランにばかり行くみんな、
子どもたちと関わることより写真を撮ることに夢中になるみんな、
買い物に行っては1000ペソ(2000円ですが貧しい人々の10日ぶんくらいの収入)などを平気で使い果たしてくるみんな...、

いったい何しに来てるんだ、なぜ現地民に馴染もうとしないんだと常に不満に感じていました。

だからこそ、私は今回それを実行すべくあえて一人で来たのです。
そして会えて長く滞在するように予定を組んだのです(飛行機の関係上2週間以上滞在できませんでしたが)。

 

私たちは日本人だという、ただそれだけでどうしても敬われてしまいます。
その壁をどこまで壊せるか、そして私の気持ちをどこまで分かってもらえるかが今回の課題でした。

だからあえて非常食のお菓子とか何も持たずに行きましたし、
洋服も3枚くらい、1番使い古した物を持っていましたし、
化粧道具などそもそも持って行っていません。

 

 また、これまでは英語で通してきましたが、子どもたちと本当に関わるにはタガログ語が必要ですし、
ある意味では「私は本当にみんなの一員になれるよう努力したいんです」というメッセージを
周囲の大人たちに1番手っ取り早く分かってもらう方法は、毎日タガログ語を学ぶ様子を見せることでした。

したがって、毎日クラスが終わって夕方になると、ブレイルメモを前にダフネさんに、
「Come Hereってタガログ語で何て言うんですか?」
「I'm from Japanって何て言うんですか?」などと1日10こずつくらい聞いてはメモし、
その後30分くらいまるで受験生のように真剣に覚え
(周囲がその時間は話しかけてはいけないと思っていたほど)、
翌日には丸暗記したその新しいフレーズを使い、周囲の先生方やダフネさんに「ものすごい暗記力ね」と驚かれていました。

 

みんなは1日2日で終わるかと最初思っていたようですが、
4日目の木曜日になってもいつものようにタガログ語を聞いて復習している...、
そのころには周囲の先生方は十分私の気持ちは分かってくださっていたみたいですし、

ダフネさんには、
「そろそろ覚える量が多くて難しくなってきたんじゃない?何も急ぐこと無いんだから、ゆっくりでいいのよ」と言われました。

 

 ここでの先生は主に3人。

52歳のアテ ルース(アテはolder sisterと言う意味で、女性につける継承です、男性だとクヤになります)、
40代のアテ マリン、
そして2週間前から入ったばかりの26歳のアテ シェリン。

 

3人の中ではアテ ルースが1番英語がうまく、私レベルでしょうか?
アテ マリンはlisteningはできているようですがspeakingの文法のグチャグチャ具合は私よりひどいです。

"Where are y ou going?"と言う意味で、
"Where did you go?"と聞いてくれますから。

アテ シェリンが1番英語ができなくて、
私が言っていることもどこまで理解しているかはちょっと微妙なところがありますし、
本人も自信が無いので英語ではめったにしゃべりません。

 

いちおう、英語はフィリピンの共通語の一つで、
駐留階級以上の人ならば英語を使いこなせるのは普通ですが、
スラムに行けば先生という名の人でもこの程度なのが現状です。

 

NGOの支援が入ったからこそ子どもたちは文字を覚え学校に通えますが、
お母さんたちの多くが小学校すら卒業しておらず、
金曜日に保護者の前で話しをした時には、とりあえず私の話しは皆さん理解してくれるようなのですが、
みんなからの質問はほとんどがタガログ語で、ダフネさんの通訳を必要としました。

 

あたりまえですが、コミュニティの彼らが全盲の視覚障害者のボランティアを見たのは初めてです。

最初アテ マリンは
「私たちも人のためになる仕事をしているけど、でも私たちは健常者だから。あなたは視覚障害者にもかかわらず...」
と言って涙を浮かべたのでした。

 

このような彼女たちのイメージを五日間でどう変えられるか、
私の課題がまた一つ増えます。

 

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 3月7日月曜日、朝食を済ませてダフネさんとマラボンに向けて出発します。

スタッフハウスからサイドカー(自転車の横に二人乗れる座席が付いた人力タクシー)で駅へ行き、
初めて電車に乗ります。

フィリピンの電車は、

女性占領車両と
男性占領車両と
special needs(障害者)占領車両(小さな子連れやお年寄りもOK)

に分かれているんだとダフネさんが教えてくれます。

 

「じゃあ、カップルで来たらどうするんですか?男女に分かれて乗らなければならないのですか?」

「カップルの場合は、女性のほうが男性車両に乗るのよ」とダフネさん。

 

ちなみに私たちは、そっちのほうが空いているからとspecial needs車両に乗っていたのですが、
その車両が止まる位置のところにはたいていの駅ではちゃんと駅員さんが待ち構えていて、
乗り降りにヘルプが必要な人がいれば手を貸す体制になっているという、
意外と日本よりちゃんとしてるんじゃないかと思われるサポート体制が印象的でした。

 電車の中でダフネさんに、

「あの、私、タガログ語を覚えなきゃいけないと思うんです。
だって幼稚園の子たちにはまったく英語が通じないでしょ?
私に自己紹介のしかたを教えていただけませんか?」
とここからタガログ語レッスンが始まります。

Myname is Yukariを、「アコ スィ 由香理」と言うことを学びます。

タガログ語でIやmeを表すのが「アコ」、youを表すのが「イカオ」です。

 モニュメントの駅からジプニー(バスのドアも窓も無いようなやつ)を
2回乗りついでマラボンのコミュニティに到着です。

 マラボンでは三つのクラスが行われます。

朝7時半から9時半は、6歳から7歳のクラス(修学直前)、
10時から12時は3歳4歳児のクラス、
そして午後1時半から3時半は5歳と6歳前半の子たちのクラスです。

 私たちが辿りついたのは10時半ごろ、3.4歳児のクラスの最中です。

その後昼食。

フィリピンでは、平たいお皿の上にご飯がやく半分、
そして味の濃い野菜炒めやチキンや魚が添えられ、
それをスプーンとフォークで食べるのが普通です。

「今日のメニューは魚。ピラピアよ」とダフネさんに言われ、

何だそれは?ピラニアじゃないよね...、

どんな物が出てきたって現地民と同じ物を食べるんだと覚悟して来た私ですが、
ピラニアは勘弁ですよ?

「ピラピア?(ピラニアと同じアクセント)」と聞き返すと、

「違う、ピラピアよ(ラのところにアクセントを置く)」と言い直され、

...何が違うの?

ちなみに、ピラピアは鮭のムニエルに似た味がしました。

 

 食事中、「由香理、両手貸して、これがピラピアよ」と、
まるまる1匹の焼き魚を手に持たせてくれたのですが、
なるほど、ピラニアではない、長さ20から25センチくらいの、鯵に似た大人しそうな魚でした。

 そもそも...本当ならば魚介類はあまり好きではない、
自分から買ってはけっして食べない私です。

が、フィリピンに来たとたん何かが変わる、
と言うより、生きていくためには何だって食べなければならない状況に置かれると言うか...。

 

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 スタッフハウスにはときどきもう一人の女性スタッフであるダフネさんが訪れ、いっしょにご飯を食べたりします。

スタッフたちは私以上に英語はできるのですが、フィリピン人同士で話す時はやはりタガログ語、
そしてマックスは何となくその会話を理解しているので話しに入れるのですが、
私は彼女たちが英語でしゃべってくれるか、もしくはマックスが日本語で説明してくれた話しにしか加われない...、
これが悔しくて、この滞在中に絶対タガログ語を覚えてやると心に誓います。

 あと今フィリピンは乾季で、水不足です。

滞在二日目の3月6日日曜日、朝お手洗いに行き、手を洗おうと水道をひねったのですが、水が出ないんです。

「ハリエットさん、なんで水出ないんですか?」と聞くと、

「ああ、さっき朝ごはん作ったからよ」
とあたりまえに言われ、

「ああ、そうなんですか」
と口では答えたものの、いやいや意味が分かりません。

 

日本で水不足と言えばその夏プールに入れないくらいなものですが、
水不足とは、朝ごはんのお皿洗ったらその後午後になるまで水道捻っても水が出ないことを言うらしいです。

また、なぜか朝が1番水が出なくて、夜になるにしたがって回復するのです。

 午後になって、「水出るようになったから、マックスからシャワー浴びていいよ」と言われます。

マックスが終わると、「まだ出るみたいだから、由香理行っていいよ」と言われ、バスルームへ。
ちなみにフィリピンのシャワーとは、バケツの水(温かくは無い水道水)を、
柄杓の大きいのみたいなので掬ってかけることを言います。

暗黙の基準で、一人あたり使っていい水の量はバケツ1杯です。

そこに蛇口はあるので水を足すことはできますが、この状況から見て、
バケツ1杯以上使ってはいけないのは明らかですよね。

髪まで全部洗い終わった時、なんとまだバケツの底に5センチくらい水が残っていたという自分に感動!

1番最初フィリピンに来た時はバケツ1杯の水で全てを洗うなんて考えられなかった私ですが、
いつのまにか鍛えられ、私はここで生きていけるかもしれない、と思った最初の出来事です。

 

 日曜日の夕方ダフネさんが家に来て、これからの私の予定を言い渡されます。

月曜日から木曜日まではマラボンにあるスラムのデイケアセンターに行き、
幼稚園の子どもたちに折り紙を教えたりstory tellingをする。

金曜日は、うまく行けば近くの障害児学校に行き高校生の前で話しをする、
ただし学校とまだ交渉中だから、もし断られたらマラボンの子どもたちの保護者の前で話しをする
(実際には学校に断られ、保護者の前で話しました)。

土曜日は午前中は休みで午後はダフネさんとナボタスのスラムへ行き、
小学生高校生(フィリピンには中学校はありません)と関わる。

日曜日は1日休みで、

次の週は月曜日から木曜日までトンドのスラムへステイし、
最初の三日間は子どもの相手、最終日は保護者の前で話し。

帰る前日の金曜日はマラボンやトンドのお世話になった関係者に集まっていただいて
Evaluation Day(評価やアドバイスをいただく日)だと言われました。

 

 とにかく、明日までに折り紙で子どもたちに何を教えるかと、
story teeling(読み聞かせ)で日本の童話のうち何を紹介するかを考えておきなさい、と。

 

ええっと、童話を語るほど私に英語力あったっけ、保護者の前で話しするspeaking力あったっけ、
という疑問と不安を抱えたまま明日は朝早いからと部屋へ追いやられます。

 

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 乗り継ぎの場所からマニラへ向かう飛行機の待合室まで来たところで、
ようやくタガログ語(フィリピンの公用語)が耳に入るようになり、私のテンションは上がります。

 

終に、私はまた大好きなフィリピンに行く!!

 待合室で隣に座っていた30代後半くらいの女の人が英語で話しかけてきて。
「あなた一人なの?どこまで行くの?」

私の左隣に二人女の人がいて、
私に近いほう(たぶんそっちのほうが年上)の人は英語ができるみたいで、
ただ私から遠いほうの人はどうやら英語はできないらしく、
私が答えたことを年上のほうの人がタガログ語に通訳してました。

「何歳なの?」

「21です」

「お母さんたちはどこにいるの?」

これはフィリピンに行くとよく聞かれる質問です。
そもそも障害者が家族の付き添い無しに出歩くなんて考えられない国ですから。

「日本にいます」

「あなたは日本から来たのね?」

「はい。あなたたちは、フィリピンの方ですか?」

とりあえず、待合室でも飛行機の中でも、一人でいることを周囲のフィリピン人や少数の日本人に
ものすごく心配されて、やたら声をかけられる私です。

 空港には、ハリエットさんとジャックさんが迎えに来てくれていました。
タクシーでスタッフハウスに向かいます。

彼らは、オフィスにジャックさんが住み、スタッフハウスにハリエットさんが住み、
ダフネさんは妹さんといっしょに暮らしています。

 スタッフハウスに着いた時、

「実は八日まではもう一人日本人がいるのよ」と知らされます。

32歳の女性で、地理学の研究をしている...大学院生が進化したみたいな、
同時に日本の大学で非常勤をやっているらしい人で、
英語は私レベルですが、彼女はタガログ語も同じくらい話せます。

本名は別にあるのですが、フィリピン人にとって呼びにくいので、
マックスというニックネームで呼ぶようみんなに言っているみたいです。

 

で、私たちも周囲がフィリピン人しかいないところで
二人だけ日本人が出会うと何だか不思議な気分になるわけで、
しかもむこうから見れば私は自分が教えているのと同い年くらいの学生、
そして私から見れば大学の先生と呼ぶにはあまりに頼りない、
どちらかと言うと限りなく大学院生に近い相手なのですが
とりあえずprofessorであることは確か
(ついでに日本人は自分だけだと思って覚悟していたところに先客がいて拍子抜け)
っというわけで、とりあえず何て呼べばいいのか分からないので私もマックスと呼んでました。

 フィリピンでは日本より上下関係が厳しく、神父さんや先生は非常にえらい存在ですし、
年上を敬う考え方もたぶん日本より徹底しています。

また、各差の上下関係も非常に気にしますし、先進国の人は自分より上、
みたいな不思議な上下関係もかなり気にする傾向があります。

私がお世話になるのにこのNGOを選んだ理由は、
彼らスタッフは「日本人は自分たちより上」みたいなへんな遠慮はしないからです。

 

あくまでこのスタッフハウスの主人はハリエットさんであり、
次にprofessorであるマックス、学生の立場でやって来た私は1番下という暗黙の決まりがあり、
マックスの部屋はちゃんとしたベッドですが私は床にマットを敷いてもらっているだけですし、
シャワーを浴びるのもご飯を食べ始めるのもマックスが先。

フィリピン3回目でこのルールは分かっているので、
べつに何の不満も無いですし、この新鮮な上下関係を楽しんでいたわけなのですが。

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 モニタースタッフ(?)の由香理です。

いつも、海外へ行った体験談を書く時だけこのブログに現れる...、
今回はまたまたフィリピンへ行ってまいりました!

「またフィリピン?」
というのは、渡航する前にも多くの人から言われました。

それもそのはず、私はこの1年間でフィリピンに3回行っており、
合計でやく2カ月、1年の6分の1をフィリピンで過ごしたことになるのですから。

しかし、今回今までの海外体験と違うのは、
誰の付き添いも無しに一人で現地まで行った、ということです。
現地に着いてしまえば知り合いがいるのですが、
彼らはみんなフィリピン人なので日本語は通じません。

2週間、ほとんど日本語を使わない生活をしていたのです。

ちなみに、フィリピン滞在中に東北での大地震が起きたため、
私は地震を経験しておりません。

それでは、さっそくお話ししていきましょう。

 私は今回、フィリピンのマニラのマラテという地域にある
KPACIO(Konkokyo Peace Activity Center Information Office)というNGOでお世話になっていました。

Konkokyoとつくだけあって、本当は日本にも同じNGOがあるらしく、
元は教会同士でフィリピンと提携して始まったものなのですが、
フィリピンの教会がつぶれたか何かで、日本との提携を数人のスタッフが引き受けた、
という団体で、スタッフは3人しかいません。

 代表者のハリエットさん(48歳女性)、ジャックさん(58歳男性)、ダフネさん(33歳女性)です。

フィリピンのスラム地域を対象に選んだコミュニティにまずは幼稚園を立て、
プリスクールで子どもたちへの識字教育や道徳教育を行う中で、
自然とそのコミュニティのお母さん方の意識も向上させて行き、
最終的には本来の目標である女性の地位向上・社会参加を助ける、という活動をしているNGOです。

 

で、私が日本で入っているFTCJ(Free the Children Japan)と10年くらい前から提携しており、
毎年フィリピンへのスタツアに行った際には数日間ここにお世話になっているわけで、
今年はFTCJはフィリピンへのスタツアは無いので(今年はモンゴルスタツアが行われました)、
私は相手先に直接連絡をとって一人で行ったわけです。

 いちおうフィリピンに行くのは3度目ですが、
一人で海外に行くこと、そもそも一人で飛行機に乗るのが初めてでした。

 

なのに、それがいきなり、事故率の高さや設備の悪さなどの噂が多い、
そのかわり1番安いとある航空会社で、しかも乗り継ぎをしなければならないという。

不思議なことに、フィリピンへ行く際、成田空港からマニラ空港へ直通便を使うと最低でも5万円くらいかかってしまうのですが、
中国や台湾など途中の国を経由して乗り継ぎをすれば、空港使用税も全部含んで往復で3万7000円で行けるのです。

経済的に苦しい大学生の立場では、背に腹は変えられません。

 安全性より安さ第1です。


 ちょっとした自慢としては、私はもちろんエコノミークラスに乗っていたわけですが、
乗り継ぎ時間が2時間しか無いところに飛行機の離陸が30分遅れ、1時間半しか時間が無かったのです。
そうすると、乗り継ぎの空港に近づいたころキャビンアテンダントの人が、
乗り継ぎをスムーズにご案内できるように、前のほうに来ていただいてもいいですか、と。

 

なんと、最後の20分くらい、生まれて初めてファーストクラスの座席に座れた私なのでした!

 

いやあ、思わずきょろきょろしてしまいますよね。

このわけの分からない座席の広さの落ち着かないこと、
となりに誰もいないような微妙な孤独感、とりあえずこの椅子にはたぶん私が二人座れる...。

しかもたった2.30分にも関わらずドリンク出てくるんですねえ。
それも、エコノミーって紙コップですけど、ファーストクラスだとお皿にティーカップがちゃんと載ってるんです。

格差社会をまず実感しました。

イタリア体験談その15、イタリア観光を終えて

 フィレンツェのスーパーで様々な形のパスタやパスタソースを買いだめし、
ローマのスーパーでチーズの塊を買いだめした私たちは、11月30日朝、無事日本に帰国しました。

 去年の夏休みにカナダへ行って以来、アジアの魅力にはまった私は、
フィリピン2回、インド1回とアジアのいわゆる途上国へ行き続け、
このブログにも途上国でボランティア活動をした体験記ばかりをアップしてきました。

 今回、初のヨーロッパ進出で、古代の有名な彫刻を触らせてもらい、
絵を見る楽しさを知ろうと思って、イタリア行きを決め、
「何かを学ぶのは途上国からだけじゃない。先進国だって学ぶことはあるはず」と思っていました。

 

 結論から言ってしまえば、確かにイタリア観光を通しても学ぶことはありました。

かの有名なラオコーンの彫刻を素手で触ったことは、本当に涙が出そうなほど感動でしたし
、めぐみちゃんのおかげで、美術館へ行く楽しさも覚えました。

また、日本では食べられない本格的なイタリア料理を味わい、
ジェラートティラミスといったデザートや、カプチーノなどのコーヒー類も本場の物を楽しみました。

文化というか芸術や神話に興味を持つようになり、なんとなく教養が増えたような気にもなりました。

 

 でも...、この体験談を全てお読みになった皆さんも、「それだけ?」という、
物足りなさをどこか感じていませんか?

 

これまでのフィリピン体験談に比べて面白味に欠ける、
写真だけで中身が無いじゃないかと思った方はいらっしゃいませんか?

 

正直、自分で体験談を書きながらも、
「あんまり書くこと無いなあ、おもしろくないなあ」と申し訳なく思っていました。

 

なんて言うか、確かに新しい経験をして学ぶことはあったのですが、
観光で訪れただけでは現地の人とふれあう機会はほとんど無くて、
またあくまで観光客としてその国を眺めるだけで、体で感じ、心から何かを吸収することって少ないのです。

 

 もちろん、私自身がフィリピンが大好きであり、
ヨーロッパには正直あまり興味が無いというのも大きな理由だと思います。

ですが...、やはり先進国は見た目が美しいだけで、中身が無いように思えてなりません。

 

人の感性に訴える絵画などはたくさんあるのですが、どうも心までは動かされないのです。

みんなが会社に通い、電車や地下鉄を乗り継ぎ、お店で買い物し、レストランで食事をする...、
あたりまえに家に帰り、あたりまえに学校に行く...、日本と同じだなあ、と思ってしまうのです。

 

イタリア人だって日本人だって、みんなそれぞれの背景を持ち、苦労しながら生きていて、
今何か必死になっているものがあるかもしれません。

 

でも...、なんだかハングリー精神に欠けると言うか、今生きていることへの衣装賢明さが無い気がするのです。

 

 イタリアに行って改めて実感したのは、私はやはりフィリピンが好きだ、ということでした。

 

っというわけで、この春休み、3月5日から19日まで、私は3度目のフィリピンへ行ってきます。

 

今回は初めて、一人で海外へ行く予定です。

現地に着けば、去年の3月にお世話になったフィリピンのNGOスタッフたちが私を迎えてくれ、
彼女たちの家に泊めてくれるのですが、とにかく日本からフィリピンへの行きかえりは一人ですし、
日本人が私だけなので、日本語はまったく通じない世界へ行ってきます。

なので、次の体験談はもっとおもしろくなるはずなので、楽しみにしていてくださいね!
 最後までお読みいただき、ありがとうございました。

イタリア体験談その14、再びローマ観光

 11月28日の朝、私と静はめぐみちゃんにお礼と分かれを告げて、電車でやく4時間、再びローマに戻ります。

っというのも、日本へ帰る飛行機はローマの空港から出発するからです。
今日は1日ローマを観光し、翌日29日の朝イタリアを出発する予定です。

 

 28日、その日のローマは生憎の雨。

にもかかわらず、私たちが今日行こうとしている場所は、円形競技場であるコロッセオ。

 

いいえ、雨でも行きますよ、イタリアに来ることはもう無いかもしれないんですから。

傘をさしてのコロッセオ、楽しさは半減、不快感は倍増!

 とりあえず写真1枚目をご覧ください。

写真1枚目

まだコロッセオに入る前に、外側から撮影したもので、コロッセオ全体が写っています。

 

 写真2枚目をご覧ください。

写真2枚目

コロッセオの内側なのですが、一部切り取られているのがお分かりになりますか?

今では観光名所、古代ローマの文化として大事にされているコロッセオですが、
昔はまさかこんなものが将来有名になるとは考えられていなくて、
何か他の建築物を作るために、コロッセオの石の一部を持ち去ってしまったのです。

 

 写真3枚目をご覧ください。檻が写っていますね?

写真3枚目

皆さんご存知のとおり、コロッセオは犯罪を犯した人間と、猛獣を戦わせ、
人々がその戦いを見て楽しむ...という場所でした。

この檻は、戦いが始まるまで、猛獣を入れておくための物です。

 

 写真4枚目をご覧ください。

写真4枚目

コロッセオの1番下、つまり真ん中に傘をさして立っている私を静が撮影してくれたものです。

 そして...、これまでフィレンツェの美術館が全て無料になったり、ピサの斜塔に無料で上れたりしていた私たちは、
当然コロッセオも無料、もしくは割引になるものだと思っていました。

 

が、ここではまったく割引は効かず、ばっちり12ユーロ(やく1500円)の入場料を一人ずつ取られました。

 

そのくせ、中に入ってみると、競技場の周囲を歩くだけで、べつに何って触るものが無いという、
このつまらないこと、つまらないこと。

 

12ユーロを返せと思う観光地の一つです。

 

 写真5枚目をご覧ください。

写真5枚目

ピトゥス帝の凱旋門です。
っと私もそれしか説明できないくらい、べつに有名な物ではありません(笑)

 

 写真6枚目をご覧ください。コンスタンティヌス帝の凱旋門です。

写真6枚目

彼は4世紀初めのローマ皇帝なのですが、
当時ローマの中で信仰が広がり始めていた基督教を、正式に公認したことで有名な皇帝です。

 

写真7枚目をご覧ください。

写真7枚目

コロッセオの近くにある元老院の建物です。

元老院とは何かと言いますと、まあ今の日本で言う「天下り」ですね!!

昔有名な政治家だった人々が、年を取って引退してから寄り集まった、お爺ちゃんの集団です。
何気に若い政治家より力を持っていて、この元老院の顔色をうかがいながら政治を進めなければならなかったようです。

いつの時代も変わらないものですね。

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